ほの日のコアなファンは知っていると思いますが、kawausoは幕末史に関心があります。最近は「青天を衝け」などNHK大河も好評で、また幕末熱が高まっていてうれしいのですがいつもネット検索して引っ掛かる事があります。
それが「明治維新の黒幕はイギリスだった」という一連の記事なのですが、これ本当なのでしょうか?
今回は「イギリス史料からみた幕末薩摩藩とイギリスの関係」田口由香準教授のレポートを参考に、不肖kawausoがファクトチェックしてみました。
この記事の目次
明治維新の黒幕はイギリスだった説とは?
明治維新の黒幕はイギリスだった説というのは、大体以下の内容です。
明治維新が坂本龍馬や高杉晋作のような無名な若者に成し遂げられたとする「神話」が長年信じられてきたがそれは嘘である。
実際の明治維新は、アヘン戦争で巨額の富を得た大英帝国が英国公使を通じ、ジャーディン=マセソン商会を介して長崎のトマス=グラバーを動かし脱藩浪人の坂本龍馬を動かして長州、そして薩摩とコンタクトして多額の資金援助をして達成されたクーデターである。その後、イギリスに引き立てられた薩摩藩士や長州藩士は大英帝国のエージェントとして、日本の間接支配に尽力した。
もう、この段階でkawausoの頭には?が10個くらい湧いてくるのですが、それはそれとして、今回は本当に大英帝国が薩摩藩や長州藩の肩を持ち、幕府に敵対したかを考えてみます。
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パークスは第二次長州征伐まで長州に肩入れしていない
大英帝国の日本交渉の窓口だったパークスですが、彼は長州藩と幕府の関係をどう見ていたのでしょうか?
パークスは幕府が第二次長州征伐の勅許を朝廷から受けた後、上海行きの際に下関に寄港して長州藩士数名と会談。
その内容をラッセル首相に次のように報告しています。
”私はイギリス政府は長州と幕府の紛争に関して全くの中立である事を告げ、御老中にも何度も勧告したように和解策をとるよう勧めた。”
※イギリス外務省史料№112同上、「イギリス議会史料№80同上)
慶応元年(1865年)12月8日の段階で英国は幕府と長州藩の戦闘に干渉しない中立方針を取り、同時に双方に和解を求めていたようです。
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反幕行為を禁止するパークス
第二次長州征伐が開戦するとパークスは、慶応2年7月23日(1866年9月1日)在日イギリス人に対し、次のような告示(OFFCIALNOTIFICATION)を出して反幕府勢力への支援や不法貿易を禁止しています。
第81項
イギリス政府と平和的関係にあるのは日本の将軍である。
日本においてイギリス臣民が将軍に反抗する軍事行動に参加。または戦争や反乱、または過激な行為をする人々を援助するような事はしてはならない。このような罪を犯したすべての人は軽犯罪を犯しているとみなされ有罪判決は免れないものとする。
※OFFICIALNOTIFICATION(「イギリス海軍史料」ADM125/119英国立文書館所蔵、「長防二州戦地タルヲ以テ外国船馬関碇泊禁止ノ布告請求一件」外務省引継書類730.東京大学史料編纂所所蔵所収)
これを見るとパークスは日本の統治者を幕府とみなし長州藩を対抗勢力と見做している事が分かります。
すでに、文久3年(1863年)5月12日には、エイベル=ガウアー総領事の仲介を受け、ジャーディン・マセソン商会の船でイギリスに5人の長州藩士を派遣している長州藩ですが、ガウアーの上役にあたるパークスの態度は長州藩にそれほど好意的とも思えません。
薩摩藩を訪問したパークスの意図は?
在日イギリス人に告示を出したパークスは慶応2年6月15日。長崎のイギリス商人グラバーの仲介で英艦隊キング提督と同行し鹿児島に向かっています。そして、翌16日から21日まで6日間鹿児島に滞在しました。滞在中のスケジュールは以下の通りです。
6月16日 | 鹿児島湾に入港、上陸してキング提督と藩内を散策。 |
6月17日 | 薩摩藩主島津茂久が旗艦プリンス・ロイヤルを訪問。
藩主茂久がパークスとキングを磯邸(仙巌園)に案内。 茂久及び藩父久光と共に談話。 宴会の後、薩摩藩の軍事演習を実演。 |
6月18日 | 薩摩藩による軍事演習の実演 |
6月19日 | キングが旗艦でイギリス海軍の軍事演習を実演 |
6月20日 | 引き続きイギリス海軍の軍事演習を実演 |
6月21日 | パークス一行出帆。同日の夜に長崎に帰還。 |
では、鹿児島までやってきたパークスの意図はなんだったのか?
それについては当時の外務大臣クラレンドンに以下のように報告しています。
”この鹿児島訪問がすべての人々に満足を与え、薩摩藩だけではなく他の日本の大名との同様な友好関係の先駆けになるに違いないという望みを与えるものであった。同時に薩摩藩主が私達を招待した事は私たちの友好を発展させ、日本と諸外国の関係を後押しする希望の証明を示すためと言えるもので訪問中、藩主の表明や我々イギリス政府と幕府の友好関係の維持に一致しないことは何も起こらなかった。”
※慶応2年6月22日(1866年8月2日)外務大臣クラレンドン宛て駐日公使パークス報告書「イギリス外務省史料」№121.”From SirHParkes.1866June30-AUg12”General Correspondence before1906,JapanFO46/69英国立文書館所蔵)
このように説明し慶応2年6月の段階でパークスは外務大臣に向けて薩摩藩との友好の促進は幕府との関係悪化につながらないとする見解を示しています。
確かに小説的に考えると、薩長同盟の背後にイギリスがという感じに見えますが、公式文書を見る限り、パークスは薩長に特別接近しているわけではなさそうです。
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もう一つのパークスの狙い
パークスが鹿児島を訪問したのは、もうひとつ理由がありました。当時、イギリスは幕府に対し自由貿易を求めていて、その相手は当然、徳川幕府だけではなく全国の諸大名も含まれています。しかし、権力を独占したい幕府は諸大名が直接外国と貿易して富を貯える事を好まず消極的妨害をしていました。
その煮え切らない態度に対して、パークスはフランス、オランダ、アメリカと協議して兵庫港に連合艦隊を派遣して安政五カ国条約の勅許を孝明天皇から得ていますし、第二次長州征伐を理由に安全のためとして下関海峡を閉鎖した幕府に対して万国公法に照らして不法であると抗議しています。
これらも幕府に自由貿易を認めさせ、イギリスの日本との貿易の利益を最大化しようとするパークスの意図でした。
ところが、イギリスの方針に対してフランス公使ロッシュは幕府に味方し幕府権限を強化して諸大名が幕府に叛かないように助言しパークスと対立します。
そのためパークスは、西南雄藩の代表格である薩摩藩に接近し、薩摩藩を通して九州の諸大名と通じる事で幕府とフランスを牽制する狙いがありました。
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明治維新に影響を与えた英国策論
このようにイギリスは、幕府の制限貿易に呆れつつも政権を握っているのは徳川幕府であり、朝廷と幕府が共同歩調を取ることで幕府権力は強化されると考えていました。その中で反幕傾向を鮮明にする長州藩については中立を標榜し薩摩藩については、西南諸藩と友好関係を結ぶ上で重要なパートナーと考えていたようです。
しかし、幕末史を勉強するとどうしてもイギリスは薩摩と長州に味方し、フランスは幕府に味方したと覚えてしまい史実と乖離してしまいますが、それはどうしてなのでしょうか?
そのひとつの答えになりそうなのが、1866年イギリスの外交官、アーネスト・サトウが22歳の時無題・無署名でジャパン・タイムスに寄稿した英国策論であるようです。
この英国策論の中身は
”将軍は主権者ではなく諸大名の調停者であり代表者である。
主権者でない将軍は諸外国と締結している条約の大半について実行して守る力を持たない。一方で日本全国の独立大名は外国との貿易に大きな関心をもっている。
よって、現行条約を破棄し天皇及び諸大名と新しく条約を結び政権を将軍から大名連合に移行すべきである。”
このような幕府に不利で諸大名、特に雄藩に有利な内容でした。
サトウは、薩摩藩の船が横浜で交易を拒否された事件に憤り、自由貿易を守らない幕府に対しての憤りを書いたのですが、これを英語が多少分かる人に託して日本語に翻訳して頒布した所、いつの間にかアーネスト・サトウ個人の考えが換骨脱胎され、イギリス政府の方針として「英国策論」と名づけられ京都、大坂の書店に並びます。
以後、22歳の若者が書いた英国策論を尊皇派も佐幕派も英国政府の方針だと信じ込むに到り、明治維新に大きな影響を与えました。
これが独り歩きして、イギリスは薩英戦争の段階から薩摩藩や長州藩に接近して反徳川幕府の態度を取り、逆にフランスは幕府に味方したと考えられるようになったのです。パークスは英国策論を知っていたようですが、フランスを牽制する目的で敢えて否定も肯定もしなかった模様です。
一方で薩摩は、英国策論を最大限に利用し、自らの背後にはイギリスがついていると諸大名や幕府に対して宣伝し、西郷隆盛も熱心に吹聴していたそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は明治維新の黒幕がイギリスだったという最近、よく目にする説についてkawausoなりに調べてみました。
まだ、ジャーディン・マセソン商会と薩摩藩の関係がイギリス政府まで巻き込むものだったのか?薩摩藩とジャーディン・マセソン商会だけの関係だったのか分からない部分も多いです。
しかし、少なくともイギリス政府に対するパークスの報告は、第二次長州征伐の頃まで、日本の統治者を幕府と認めるもので、長州藩を反乱軍とし在日英国人の関与を禁じるものでした。
一次史料から見る限り、第二次長州征伐の頃までは、イギリスが長州や薩摩の背後で倒幕を企んでいたというのは無理があるのではないかと思います。
参考文献:2「イギリス史料からみた幕末薩摩藩とイギリスの関係」(平成29年度)
大島商船高等専門学校 准教授 田口由香
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