小石川養生所と言えば、江戸中期享保年間に開設された病院です。赤ひげ先生診療譚の舞台になり、テレビ時代劇大岡越前では、大岡忠相の親友の榊原伊織が養生所の医師である事から頻繁に登場し時代劇ファンの馴染みになりました。
でも、そんな小石川養生所、幕末には射撃練習場になっていたってご存知ですか?
小石川養生所について解説
では、最初に小石川養生所について解説します。
江戸時代中期、江戸の人口は100万人を超えていましたが、この中には農村から江戸に来た人々が大勢含まれていました。
こうして没落し生活困窮者になった都市下層民対策は江戸の防火対策や風俗取り締まりと並んで幕府の重要政策であり、享保6年(1721年)徳川吉宗は漢方医小川笙船の施薬院を設置すべきという歎願を取り上げ、翌年には4万坪の面積を持つ小石川薬園を設置。
その小石川薬園の中で千坪の面積を当てて柿葺の長屋で薬膳所が2カ所設置され小石川養生所としてスタートします。
小石川養生所の定員は当初40名でしたが、次第に拡充し享保11年(1727年)には250名を収容する施設になっていました。以後、小石川養生所は、安政6年までに32282人もの病人や身寄りがない人を収容し、江戸市民最後のセイフティーネットになっていきます。
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縮小される小石川養生所
しかし、小石川薬園はあくまで幕府の恩恵で運営されたものであり、困窮者に与えられた権利ではありません。従って、幕府の機嫌次第、というか時の政治情勢に経営が大きく左右されました。
当初は四万坪の面積を誇った薬草園は、時代が下るごとに減少し、幕末を迎える頃には半減します。その上、日米和親条約が締結されて1年後にあたる安政2年(1855年)には、一万六千坪もの土地が伊予今治藩に下屋敷として下賜され小石川薬草園の面積は往時の1/4まで減らされてしまったのです。
ここまでは仕方がないと言えば仕方がないですが、見逃す事が出来ない問題が持ち上がりました。今治藩が老中に対し小石川下屋敷での鉄砲稽古を願い出たのです。
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養生所は嘆願するも力及ばず
時節柄、幕府の奨励もあり諸藩は江戸屋敷でも軍事訓練を活発にしていましたが、江戸中心部にある上屋敷や中屋敷では危ないので、もっぱら郊外の下屋敷を訓練場とするのが普通でした。
しかし、いかに郊外と言えども、今治藩が許可を求めて来た場所は養生所のすぐ裏手だったのです。
病人が養生している場所の裏手で鉄砲稽古となれば射撃の騒音はおろか、流れ弾が飛んでくる危険さえあります。
養生所は町奉行に訴え出て
「国難の折、射撃精度の向上が必要な事は重々承知ですが、恐れながら近隣での射撃は入院患者に悪影響を及ぼすので、どうか今治藩に掛け合い鉄砲の稽古を中止してもらいたい」と嘆願します。
実は、以前にも養生所の近くで鉄砲稽古を願い出たケースが2回あり、その時は養生所の訴えが勝ちましたが、今回は今治藩の根回しがあったのか町奉行所が訴えを封じ込めてしまい、老中は今治藩に鉄砲稽古の許可を出してしまいました。
当時の老中は阿部正弘か堀田正睦か分かりませんが、もう少し病人の安全の為に、何とかしてあげようという気はなかったのでしょうか?
その後、小石川養生所で鉄砲稽古による事故が起きたのか?それとも起きなかったのか?その点については記録がありません。しかし、裏手で鉄砲音が鳴り響く中での療養は困難を極めたでしょう。
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その後の小石川養生所
小石川養生所は、明治維新により一旦は廃止されますが、医学館の管轄に移り「貧病院」と改称して存続します。しかし、新政府の漢方医廃止の方針により間もなく閉鎖されました。
薬園と養生所の施設は1870(明治3年)年に文部省の管轄に移行され、1877年には東京帝国大学に払い下げを受けて最終的には理学部に組み込まれます。紆余曲折はありましたが、小石川養生所は140年余りも江戸の最も貧しい人々のセーフティーネットの役割を担い続けたのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
小石川養生所は、近隣の貧しい農民を飲み込んで人口を増大させ、100万都市となった江戸の負の側面を請け負う重要な救貧施設でした。しかし、当時の人権は幕府の恩恵に左右される存在だった為、生きる権利が考えられる事があまりなく、あろうことか病院の裏手が鉄砲の稽古場というブラックジョークのような有様になります。
これは何も江戸時代だからで済む話ではなく、現代でも社会的弱者に対する予算は、何かと理由をつけて削られる傾向にあります。社会的弱者は数が少なく政治家にとっては票にならないので無視される事が多くなるのです。
小石川養生所の顛末を考えると、理不尽な要求には声を上げ、絶えず社会的弱者の人権を守る努力をしないといけない事が痛感されますね。
参考文献:江戸の不動産 文春新書
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