徳川慶喜の余生が羨ましい!カメラにハマった徳川幕府最後の将軍

24/01/2021


大政奉還した徳川慶喜

 

徳川幕府最後の将軍として有名な徳川慶喜(とくがわよしのぶ)。明治維新が起こり、慶喜が29歳の時、将軍を僅か1年で辞めることになりました。

 

余生をゆっくり過ごす晩年期の徳川慶喜

 

徳川慶喜はその後何をしていたかというと、隠居生活を送りながら趣味に没頭しました。彼は、多趣味でしたが、カメラでよく屋外に撮影に出かけていたそうです。彼は、77歳まで生き、歴代徳川将軍で最も長生きし、人生を楽しんでいたと思われます。

 

今回は、そんなカメラにハマった徳川慶喜について紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徳川慶喜ってどんな人物?

徳川慶喜(幕末)

 

簡単に徳川慶喜について解説します。

 

  • 徳川慶喜の出身地  :江戸 小石川(現在の東京都文京区後楽)
  • 徳川慶喜の生年月日 :1837年9月29日
  • 徳川慶喜の死亡年月日:1913年11月22日(享年77歳)
  • 徳川慶喜の身長   :153cm〜156cm

 

慶喜は江戸時代最後の将軍です。

 

徳川斉昭

 

父は、徳川御三家である、水戸藩藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)、母は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の第12女王・吉子女王(よしこじょおう)になります。

 

酒乱の徳川慶喜

 

慶喜は文芸・武芸に精通し、学びがありますが、空気は読まない・自分勝手だが評判を気にする・家臣からは嫌われる・女性からも嫌われるなど我が強く、非常にユニークな人物です。

 

徳川慶喜は余生はカメラに没頭

 

徳川慶喜は明治維新後の余生は趣味に没頭します。彼は非常に多趣味でした。アウトドアだと、狩猟、釣り、鷹狩り、自転車、弓道、手裏剣術などを楽しみ、インドアだと、絵画、囲碁、将棋、能楽、謡曲、手芸、カメラを好みました。

 

とりわけカメラにハマっていたらしく、撮影のために屋外に出かけていました。撮るのも好きでしたが、写るのも好きだったようです。よくカメラなど趣味のために地域のさまざまな場所に赴いていたことから、地元の人々からは、「ケイキ様」、「ケイキさん」の愛称で親しまれていました。

 

写真投稿してもなかなか採用されない徳川慶喜

 

肝心のカメラの腕前はお世辞にもうまいとは言えず、当時の人気の写真雑誌に投稿してもなかなか採用されませんでした。彼がはっきり写真撮影をしていたことが確認できるのは明治26年からです。

 

その頃静岡に住んでおり、近くには浅間神社、安部川、臨済寺、久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)などを訪れ撮影に訪れました。

 

明治20年代から湿板写真から乾板写真が普及し写真愛好家は歓喜

 

湿板写真(しっぱんしゃしん)は1851年にイギリスのフレデリック・スコット・アーチャーが発明した写真術です。この技術は1854年〜1860年の間に日本に輸入されました。湿板写真が日本に写真を定着させました。

 

1871年には、イギリスの医師リチャード・リーチ・マドックスが乾板写真(かんぱんしゃしん)を発明しました。乾板写真の普及により、湿板写真に比べて容易に写真撮影が行えるようになり、アマチュア写真家の熱が上がり、写真団体も創設されました。

 

慶喜はこれまで、人との交流が少なく、一人で撮影をすることが多かったです。しかし、乾板写真の普及により、徳川昭武(とくがわあきたけ)篤敬(あつよし)家達(いえさと)らも写真活動を始め、これら一族と写真撮影に出かけたり、写真の交換などを行いました。

 

徳川慶喜にはカメラの先生がいた!

 

徳川慶喜にはカメラの先生がいました。写真師徳田孝吉(とくだこうきち)です。徳田孝吉は明治2年に朝敵として幽閉されていた松本良順(まつもとりょうじゅん)に写真術を学び、明治7年、根岸常義(ねぎしつねよし)に弟子入りし、二年間勉強しました。その後、静岡に自身の写真スタジオを開きました。その後、慶喜は度々徳田孝吉から写真術を学びました。

 

徳川慶喜が写真に熱中していたのは明治26年から28年の2年間

 

「徳川慶喜家扶(かふ)日記」によりますと、彼が最もカメラにハマったのは、明治26年から明治28年の2年間の間だと言われています。この時期を過ぎると、写真に関する記載は少なくなっています。ですが、その後も昭武と写真撮影を行っていたとされる文献もあります。華族の写真愛好家によって発行されていたと考えられている写真投稿誌「華影(はなのかげ)」には、少なくとも9点の写真が掲載されています。

 

三国同盟を潰したあの男

 

 

徳川慶喜が愛用したカメラ

 

慶喜は、ミニマルホルモスステレオカメラ・プレモカメラ・パノラマカメラの写真が確認されています。ステレオカメラとは、対象物を複数の異なる方向から同時に撮影でき、その奥行きなどの情報も記録できるカメラです。

 

パノラマカメラとは、極端に広い帆小幅をひとコマに撮影するためのカメラのことをいいます。写真は平凡だが、物事を客観的に捉えようとする視点が感じられ、ステレオカメラやパノラマカメラを愛用していたと考えられます。

 

参考文献:松戸市 戸定歴史館

 

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浜 俊章

浜 俊章

これまで日本がどのような歴史を辿ってきたかを分かりやすく丁寧に解説していきますね。歴史は知れば知るほど面白いですよ。
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