いわゆる「くさい飯」として知られる刑務所のゴハン。でも、プリズンライスが臭かったのは昔の話で現在では学校給食並に予算がつき、カロリー計算も施され健康に留意した美味しいモノになっているそうです。
しかし、およそ人権など顧みられなかった江戸時代の牢獄では、囚人たちはどんな食事をしていたのでしょうか?
盛相飯でやっこみ!やっこみ!
江戸時代の最大の留置所である伝馬町牢屋敷では、囚人の食事は一日二食で朝食と夕食がありました。食事は薄暗い調理場で、盛相と呼ばれる竹の型に飯を押し込んだままで出され、見張り番が牢獄の五器口と呼ばれる細い出入口から差し入れます。
牢内役人が食事を受け取り、牢内に「やっこみ!」と知らせると囚人全員でやっこみ!と連呼して応えました。
朝夕には、ご飯だけではなく桶に入れた汁も出て、お湯も配られたそうです。
お米は囚人1人につき1日四合五勺とかなりの量ですが、実際には30%ほども牢役人と牢番役人にピンハネされ、平囚人はわずかに盛った食事しかあたらなかったとか、一方で実質的に牢を支配している牢役人は、大盛りのゴハンに少しのオカズという特別食にありつけたという事です。
しかし、平囚人でも親族などから仕送りがあれば、そのお金で簡単な総菜を牢番役人に頼んで購入してもらう事が出来ました。
江戸時代は、農村の貧しい百姓はなかなか米を食べる事も出来なかったそうですからそれを考えるとピンハネされるとはいえ、米の飯が食える伝馬町牢屋敷は食事に関してだけ言えば、そこまで劣悪な環境では無かったようです。
江戸時代に刑務所は無かった!
さて、貧しい農村では米の飯にありつくのが難しかった江戸時代。どうして伝馬町牢屋敷では、囚人に米の食事が与えられていたのでしょうか?
その理由は伝馬町牢屋敷が実際には牢獄ではなかったせいです。
伝馬町牢屋敷は、裁きが下っていない未決の容疑者を留置しておく留置所で、多くの囚人は身分に応じて牢屋敷から駕籠や、もっこに乗せられ奉行所まで出頭させられていました。
こうして、裁きが下って初めて本格的な罪人になるので、伝馬町牢屋敷にいる間は、半分お客様であり、懲罰として粗末な食事を出すという発想にはならなかったのかも知れません。
ちなみに伝馬町牢屋敷に入牢できるのは、永牢という終身刑に処されない限りは半年程度と決められていて半年経過すると、牢役人から奉行所に囚人の族籍と罪状が届け出され、何らかの刑に処せられて牢屋敷を出る事になりました。
半年生きるのも難しい生き地獄
しかし、半年間、米の飯を食べてのんびり出来るかというと伝馬町牢屋敷はそんなに甘いものではありませんでした。すでに述べたように、牢屋敷には牢役人と呼ばれる幕府に牢内の自治を命じられた先輩囚人がいて、それらは10枚も畳を重ねた上にあぐらをかく牢名主の支配下にありました。
伝馬町牢屋敷では牢役人の機嫌を損ねては生きられず、「つる」と呼ばれる賄賂を持参しないと、腹いせにリンチされるなど、いじめを受けて衰弱し、1ヶ月も持たないうちに病死したり、不審死を遂げる事もざらでした。
逆に、つるが十分にあると最初から隠居役など牢役人として、一畳の生活空間が与えられ体を延ばして寝られるなど、生き延びられる可能性が高くなりました。まさに地獄の沙汰も金次第だったのです。
伝馬町牢屋敷の記録を書いた吉田松陰
さて、泣く子もだまる伝馬町牢屋敷ですが、こんな地獄の記録を書き残していた幕末の偉人がいました。それが安政の大獄に散った教育者で攘夷の志士でもある吉田松陰です。
吉田松陰は無断でアメリカの軍艦に載せてもらおうとして下田で捕まり、その後釈放される事もなく伝馬町の牢屋敷に送り込まれましたが、まったくの着た切りスズメで「つる」を持っていませんでした。
牢名主から「つる」を催促された松陰は「これは大変な事になった!」と戦慄。あちこちにいた知人にお金を無心してくれるように頼み込む手紙を書きまくり、金額は不明ですが、かなりの金額のつるを牢名主に渡したそうです。
その甲斐もあり、松陰は、若隠居、仮座隠居、二番役、添え役とランクが上がり牢名主の補佐として比較的安楽な牢内生活を送れたようです。
松陰は死罪になりそうな所を、川路聖謨や老中、阿部正弘の口利きで釈放され故郷である萩の野山獄に送られ、その後故郷で松下村塾を開き多くの英才を育て上げます。
しかし、安政の大獄で松陰は、先に逮捕された梅田雲浜と会見した容疑で捕らえられ、取り調べで、自ら老中暗殺計画を白状し、その事が原因で再び伝馬町牢屋敷に収監され3ケ月で死罪を命じられ刑場の露と消える事になります。
もうひとつの楽しみ入浴
松陰の「江戸獄記」には、もうひとつの伝馬町牢屋敷の囚人の楽しみが記されています。それが夏は月に6回、春秋は月5回、冬は月4回あったとされる入浴です。
一般牢である大牢、百姓牢、無宿牢は、別に浴室がもうけられて入浴しましたが、伝馬町の牢屋には窓がなくいつもジメジメと湿気がスゴイので、開放的な空間で垢を流せる風呂は囚人たちのまたとない娯楽でした。
また、夏は夕休みと称し、二重格子の中間の土間へ出ることを許され体を伸ばす事が出来ました。人口過密で一畳に3人から6人が押し込まれた牢屋敷では、体を伸ばせる事が大変な贅沢だったのです。
日本史ライターkawausoの独り言
今回は江戸時代の刑務所である伝馬町牢屋敷での食事について解説してみました。朝夕二度、米の飯が食べられた牢屋敷ですが、狭い牢獄にギュウギュウに囚人が押し込まれ、住環境は劣悪でした。
そこに牢役人のリンチが加わり、刑が決まる前に病死と届けられた囚人も大勢いたようです。実際には留置所で半年しかいられない場所でしたが、その半年生きるのも厳しい地獄のような場所が伝馬町牢屋敷でした。
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