えのころ飯とは?衝撃の犬料理は存在するの?

27/06/2020


dog(犬)

 

えのころ飯とは、薩摩藩で食べられていた料理でいぬころ飯が(なま)ったものです。素材は子犬で屠殺(とさつ)した犬のお腹を開いて内臓を抜き、よく洗ってからお米を詰めて針金でお腹を縫い、(かまど)焚火(たきび)に放り込んで蒸し焼きにする料理で、イメージ的には子豚の丸焼きに似ています。しかし、現在の感覚からはあまりにかけ離れた感覚があるえのころ飯は、本当に存在したのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


太田南畝はえのころ飯を実際に見てはいない

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

えのころ飯についての説明は、江戸時代の文人で御家人だった太田南畝(おおたなんぽ)が「一言一話補遺(いちごんいちわほい)」に「薩摩にて犬を食する事」として紹介しています。しかし、この内容は伝聞情報で太田南畝が実際に、えのころ飯を見たわけではないようです。

 

Satsuma-Domain-eat(えのころ飯を食べる薩摩藩士)

 

ただし、御家人でもあった南畝は、1804年長崎奉行所に赴任していて、そこで聞いた話かもしれません。ただ、注意しておきたいのは、南畝自身はえのころ飯に嫌悪感を持っている様子はなく、高貴の人食するのみならず薩摩侯へも進むと書いているように、身分が高い人ばかりか薩摩侯も食べると記している点です。

 

えのころ飯を紹介する記事には、これを下手物(げてもの)のように書く人がありますが太田南畝はそのように考えて、えのころ飯を紹介したのではありません。

 

えのころ飯は庶民の料理ではない

 

えのころ飯についての情報には、えのころ飯は戦場で生まれた料理で、犬の腹にご飯を詰め込んで縫うのも戦場では鍋や釜が手に入るとは限らないからと、もっともらしく説明したものがあります。しかし、当時の合戦は行き当たりばったりで始まったのではありませんし、戦うに当たっては、必要な道具の一式を揃えておくのは武士の当然の(たしな)みでした。

 

armor(鎧を身にまとう武士)

 

これから食事という時に、鍋や釜がないなどという事はあり得ず、仮に犬を捕まえたとしても、その下処理が刀一本で出来るわけもありません。肉を洗い血を抜き毛を抜くなど作業は多岐(たき)に上るのであり、最低限の調理器具や水が必要で川で魚を釣って(さば)くのとはわけが違います。

 

もうひとつ、シラス台地の薩摩ではあまり米が取れず主食はイモ、副食は各家庭で飼育した豚や鶏でした。犬のお腹にお米を詰め込んで焼くなど、下級武士には贅沢品でした。ここから考えると、えのころ飯は太田南畝が紹介したように上級武士や薩摩藩主しか食べられないような珍味の扱いだったと考えるのが自然です。

 

はじめての戦国時代

 

日本には古代から犬食がある

Schipperke(スキッパーキ犬)

 

えのころ飯に限らず、犬を食べる文化は日本でも弥生時代頃からあったようで、犬食文化を持っていた大陸からの渡来人の文化的な影響であるようです。その証拠としては、弥生時代の遺跡からは、一匹の犬のまとまった骨ではなく解体していから遺棄された骨格の出土例が多くなるそうです。

京都御所

 

奈良時代の天武天皇(てんぷてんのう)5年(675年)4月17日には肉食禁止令が出て、4月1日から9月30日までの間、稚魚(ちぎょ)の保護と、牛、馬、犬、日本猿、鶏の五畜の肉食が禁止された事が日本書記の記述に見え、日本でも犬を食べる習慣があった事は間違いないようです。これらの肉食禁止令の浸透で表向き、肉食は禁止される形になりましたが、犬を食べる習慣はしぶとく続きました。

 

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生類憐みの令の頃から下火に

軍旗

 

15世紀に記された蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)によると、軍事訓練の一つである犬追物(いぬおうもの)の後に殺した犬を調斎(ちょうさい)して蔭涼軒に集まり(きつ)したという記述があり、犬追物の犬を町内や市内で放し飼いにされている犬を捕まえてくる事で賄い、騎馬で追い回した後で射殺して食べた事が推測されます。また、都市には犬追物に使う犬を売る専門集団や、独自の道具まであったそうです。

 

Luis-Frois(ルイス・フロイス 宣教師)

 

戦国時代でも、宣教師ルイス・フロイスは「日欧文化比較」で欧州人はめんどりウズラや、パイ・プラモンジュなどを好むが、日本人は野犬や(つる)、大猿、猫・生の海藻などを喜ぶと記録していています。

 

Luis-Frois(ルイス・フロイス 宣教師)

 

特に犬食はありふれていたようでフロイスは、我々は犬を食わずに牛を食うが、日本人は牛を食わずに犬を食うと対照的に記録していました。その後、徳川綱吉の生類憐みの令が契機になり、特に犬を保護した事から、犬食ブームは下火になっていったようです。

 

しかし、徳川幕府は他藩にまで犬食禁止を強制できないので、薩摩のように、江戸を遠く離れた土地では、従来通り、犬食やえのころ飯が食べられた可能性はあります。

 

動物性たんぱくをよく食べた薩摩人

takamori-saigou-chest(西郷隆盛のチェスト)

 

米が取れなかった薩摩では、イモを主食に豚、鶏、山羊、イノシシ、ノウサギなど肉類を何でも食べました。この動物性たんぱく質が頑強で壮健な薩摩隼人を産み出して、九州統一まで後、一歩という所まで進めた原動力になったかもしれません。

 

また、当時は捨てる程食べ物がある今と違い、食事は命を繋ぐための大事なものでした。食べるのが犬でも豚でも、薩摩人は感謝して食べ、彼らが生きていたお陰で現在の鹿児島県民が存在しているのです。

 

犬は食べてはダメで牛はいいとか、牛も豚も生き物は全部ダメとかの論争の前に、目の前の食事に毎日感謝を捧げて大事に食べているかを、私達は、もう一度問い直した方がいいでしょう。そうでなくても、大量の食糧を捨てている国に私達は生まれているのですから

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

犬が食用に供されたのは、その成長速度の速さがあります。中型犬は誕生10カ月から1年で50倍の体重になり、11キロから25キロと肉にするにはちょうど良い大きさになります。また、雑食で人間の食べ残しを食べて成長出来る事から飼育コストも安いですし、従順で飼育に手間がかからない事も食用に向くと考えられたのでしょう。

 

私は犬を食べたいとは思いませんが、だからといって犬を食べていた祖先を野蛮だと罵るような態度は違うと考えます。

 

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カワウソ編集長

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