源平合戦による平氏の滅亡が、あまりにドラマチックすぎたからでしょうか。あるいは、『平家物語』が文学作品として、あまりにもよくできていたせいでしょうか。
平氏の滅亡は、「盛者必衰」のキーワードがハマッてしまっている通り、なにやら歴史の運命であったかのように見えてしまいます。ですが、ここでひとつ、別の視点を入れてみましょう。
たとえば源頼朝・源義経兄弟が早々に処刑されており、後白河法皇からの権力奪取も早い段階で成功していれば、そもそも源平合戦が起こらなかった可能性がある。
そして、源平合戦が起こらなければ、平氏政権がその後も長く続いていた可能性もある。このように仮定したとき、平氏政権の支配のもとでの中世日本は、どのような社会になっていたでしょう?
そして、その後の日本史は、どのように変わったことでしょう?
この記事の目次
源平合戦が起こらなかった世界では、平清盛の遺志が粛々と遂行されていた?
このイフ世界においてポイントとなるのは、源平合戦という未曽有の危機に陥らなかった場合、平清盛の息子たちは無事に権力を継承し、かつ、迷うことなく平清盛の生前のプランを継続していただろう、という点です
(史実では、木曽義仲および源頼朝の挙兵にあたふたした上に、後白河法皇のぬらりくらり戦略に翻弄されて、清盛の死後の平氏はとにかく判断の悪さが連続しますが。
二代目の時代になっても源平合戦という危機が起こらなかったとすれば、この前提も変わってきます)。では平清盛の生前からのプランとは、どんなものであったのでしょうか?
そのヒントとして、『平清盛の闘い-幻の中世国家(元木泰雄/角川業書)』を参考文献にしてみたいと思います。同書には、死の間際の清盛が、実に具体的な「都市計画」を練り上げており、もし寿命がもう少し続けば、その計画を実行していたであろう点が指摘されています。
それがすなわち、京都南部の再開発計画です。
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平清盛が構想していた「京都新都心計画」!
晩年の平清盛が、平氏の拠点である福原に強引な遷都をしたものの、結局うまくいかず、還都(元の土地に都を戻すこと)という次第に落ち着いてしまったということは、よく知られているとおりです。
ですが遷都に失敗した平清盛が、その代替策として、京都の南部、八条・九条の土地を接収し、そこを再開発して、京都の都市機能の中心を移動させようとしていたことは、あまり知られていないのではないでしょうか。
福原への遷都を諦めた清盛ですが、「都の改造」というアイデア自体には、引き続きこだわっていたのです。福原遷都は、さすがに無理があった。しかし都を劇的に改造することで、旧泰然とした貴族勢力の基盤を切り崩したい。そこで、より現実的な案として清盛が考えたのが、遷都はせずに、「新都心を京都の南側に作る」計画、というところとなりましょうか。
そして源平合戦が起こらなかった場合、平宗盛や平知盛は、叛乱への対応に引きずり回されることもなく、清盛の計画を実行に移していたことでしょう。
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中世における京都の意味が「公武合体都市」として変わっていた?
そうやって開発された京都副都心とは、どのような性格になっていたでしょうか?
参考文献『平清盛の闘い-幻の中世国家(元木泰雄/角川業書)』の考察も借りつつ、かつ、歴史ファンとしての「こうだったらよいな」の空想も恥ずかしながら盛り込みまして、考えてみました。
・「京都は軍事的に見て守りにくい」とボヤき続けていた清盛が計画した新都市計画。とうぜん、新都心には城壁やら櫓やらが、武士という戦闘プロフェッショナルの目から見てじゅうぶんなように張り巡られ、「今後、叛乱が起こっても、籠城して守るによし」な京都となっていたでしょう。
・平氏がバックボーンとする瀬戸内海へ向けての交通路が整理され、瀬戸内海から水揚げされた物資が直接、この「新都心」に輸送されるルートが確保されたでしょう。もしかしたら、現在の大阪の位置に、はやばやと「新都心の貿易港」としての大商業都市が形成されたかもしれません。
・比叡山や南都諸宗とは距離を取った、新しい宗教文化が発生した可能性があります。おそらく熊野や伊勢とのゆかりを重視した路線でしょう。史実の「鎌倉仏教」とはまるで違った日本宗教史の展開があったかもしれません。
そして何よりも重要なのは、「貴族武士」という特徴を持つ平氏の政権下では、武士はより貴族文化を吸収し、逆に貴族は武芸や兵法を学ぶようになって、両階級の文化がより混合したと考えられることです。史実の鎌倉幕府が、武士と貴族の文化を決定的に分離したこととは逆に、「公武合体」文化が京都にて栄えた可能性があります。
いわば、京都新都心は、実際の中世日本には出現しなかった「公武合体都市」の様相を呈していたかもしれません。
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まとめ:日本はより大陸に近い、「西日本中心」社会となっていた?
源平合戦を経ないことにより、京都の南に新都心を作った平氏。その新都心を支える流通網は瀬戸内海となる為、平氏がバックボーンとする福原、広島、太宰府との水運が発達していたでしょう。すなわち中世日本の中心は瀬戸内海文化圏、ということになっていたでしょう。
またこれも清盛の構想を継承して、日宋貿易はますます栄え、大陸から九州、瀬戸内海を通じて京都までを結ぶ公益ルートが確立し、日本はアジアのダイナミックな公益圏の中に位置づけられていたかもしれません!
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日本史ライターYASHIROの独り言
このイフ世界で、ひとつだけ気になるのは、このような平氏政権が、果たしてこの後のアジアを席捲するモンゴル帝国の脅威(元寇)にはどう対抗したか、という点ですが。
平清盛の遺志を継承した宗盛や知盛の子孫たちが、西日本中心となった日本で、どのような陣容で元寇に対抗したか。それを想像してみるのも、面白いかもしれません!
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