院政とは譲位した天皇が上皇として引き続き政治の実権を握る政治体制です。天皇を操り裏から政治を支配するイメージがあり、現代政界でも総理大臣を裏で操る影の実力者を大御所とか院政を敷くと言ったりします。
しかし、最近の研究では、院政は必ずしも天皇と対立するものではなく、むしろ上皇と天皇は補完関係にあったとする説が一般的なのです。
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白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の上皇
従来、上皇という地位は天皇を操り人形にして隠居した天皇が独裁権力を振るう、保守的でネガティブな存在として描かれてきました。上皇の院宣や院の庁下し文が大きな力を持ち、諸国の受領任命にも力を振るい、治天の君と呼ばれた白河上皇が
「この世でままならないモノは、賀茂川の水と双六と山法師」と語り、逆にそれら以外は思いのままだったと説明される事もあります。
その中で天皇は幼くして即位させられて上皇の操り人形となり、鳥羽や崇徳のように上皇に理不尽な仕打ちを受ける天皇の悲哀が強調されました。ところが実際の上皇は、天皇を一方的に蔑ろにする存在ではなく、むしろ律令制に縛られ思い切った政治が出来ない天皇を補完する存在であったのです。
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律令に縛られた天皇と自由な上皇
平安後期の天皇は、完全に律令制に縛られていました。最初は機能的だったであろう律令ですが、次第に慣例が固定化させていき社会の変化に対応できなくなっていたのです。
一方で上皇は新たに産み出された概念で律令制の外に存在しました。その為、上皇は自由な裁量で国内の問題に対処出来たのです。
もちろん、院政に対して当時から厳しい指摘をする人は存在しました。右大臣を務めた藤原宗忠は、日記「中右記」で白河法皇の院政を
「法を無視し、思うまま叙位を行い、男女とも特別に寵愛される事が多く天下の秩序を破る行為である」と嘆いてみせます。
ただ、それは摂関家という律令制の枠内から行動が自由に見えた上皇を秩序を乱すと批判しているだけであり、国政の観点から行けばメリットもあったのです。
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白河上皇の院政は必要に迫られたから
そもそも、治天の君として万能権力者のように思われた白河上皇は当初、院政を意図せず、隠居して息子の堀河天皇に全てを任すつもりでいました。
しかし、
1、白河上皇に天皇の地位を反故にされた後三条天皇の子、輔仁親王に反藤原と反白河勢力が結集し、若い堀河天皇では対応を誤る危険があった。
2、当初は、ベテラン関白藤原帥通が若い堀河天皇を支えていたが働き盛りで急死。後を継いだ藤原忠実は22歳の若さで経験が足りず政治の舵取りが出来なかった。
3、各地で土地を巡る争いが増えたが、東大寺や興福寺のような寺院は強訴に訴えて、要求を押し通し若く信心深い堀河天皇や忠実では対応できない。
このような状態を受けて朝廷ではキャリアを積んだベテランの白河上皇に白羽の矢が立ち、それが院政という政治体制に繋がったわけで、白河天皇が意図して院政を敷いたというわけではありませんでした。
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上皇の政治スタッフ 院近臣
天皇に代わり、寺院の強訴や朝廷内の権力闘争を取り仕切る事になった上皇は、出自や家柄に関係なく、自分に近しい部下をヘッドハンティングしてスタッフに加えて膨大な行政問題の処理を命じます。こうして上皇のお気に入りになった人々を院近臣と言いました。
院近臣の大半を占めたのは受領と呼ばれた国司で、彼らは上皇に接近して献金や寺院の建立、荘園の寄進をする事で、上皇から官職を与えられたり、実入りが良い国司に再任されたりして権力を維持する事が出来ました。
こうした受領の中に伊勢平氏の平正盛や平忠盛もいて、次第に財力を蓄え保元・平治の乱を制し武士の時代を築いていく事になります。また、院近臣には一部、有能な実務官僚もいて才能はあるが、身分が低く律令体制では出世が望めない信西のような人物が院政を支えていました。
但し、院近臣は律令制と違い上皇の寵愛のみが命綱なので、生き残る為に他の近臣との間で勢力争いが熾烈となり、平治の乱の一因ともなって武士の時代を招く呼び水になっていくのです。
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上皇院政が日本政治を救った
平安後期、律令的な国家運営が行き詰まり、公領と荘園が並立する荘園公領制への転換が進み、日本中の土地を切り分けて地域ごとに囲い込む動きが進みました。
こうして、土地や水利権、物流を巡る軋轢から武装化が進んだ武士が台頭した時代に、律令に縛られて身動きが取れない天皇に代わり、院近臣を積極的に登用し、人事や荘園の認可、紛争の裁定などに剛腕で対処したのが院政だったのです。
白河上皇は、地方権力者である受領から寺院や荘園の寄進を受け、巨大な富と権力を手にしましたが、それは受領たちが天皇よりも上皇が頼りになると考えたからであり、裏を返せば、彼らが納得できる裁定を上皇が下したという事でもあります。
独裁権力を持ち律令に関係なく、迅速に自分達の権利を保護してくれる上皇を受領は救世主として認識していましたし、天皇も補完的存在として消極的にせよ院政を認めていました。
もし上皇がなく院政が起きなければ、朝廷の政務は滞り武力解決を求めて紛争が続く事になり、平安末期の政治は、より救いがない悲惨な状態に落ちていった事でしょう。
どうして院政がネガティブイメージになったのか?
マイナス面はあれど、結果的に複数の権力並立状態を産み、中世を準備した院政がネガティブに捉えられるようになったのは、主に江戸時代の事でした。
新井白石は「読史余論」で院政期を「末期的な社会の姿と言える」と批判し、儒教の名分論に基づき天皇ではない人物が天皇並の権力を持つ事を不適切としたのです。
やがて明治維新を迎えると天皇を中心とする考え方から、上皇が天皇を差し置いて権力を振るったネガティブな存在となり、それがつい最近まで尾を引いたというわけでした。
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日本史ライターkawausoの独り言
院政は従来言われてきたような、”天皇が出家して幼い息子に譲位し、律令の縛りがない状態で好き放題に政治を動かしたネガティブな政治体制”ではなく、律令の形骸化で増え続ける荘園問題に対処できなくなった天皇に代わり、上皇が自由な立場から荘園問題を解決した朝廷の補完的体制と考える事が出来るでしょう。
問題がないわけではありませんが、存在しなければ困るという必要悪が院政の正体だったと言えるかも知れません。
参考文献:ここまで変わった日本の歴史24の新説 中央公論新社
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