院宣とは何?院政完成と同時に誕生!上皇のお言葉文書【鎌倉殿の13人】

22/05/2022


後白河法皇 天皇

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人では、後白河法皇(ご・しらかわほうおう)院宣(いんぜん)が度々登場します。院宣は文書の形式で、法皇の命令書であるようですが具体的にはどういうものであり、また天皇の命令とはどう違うのでしょうか?分かりやすく解説してみましょう。

 

 

 

院宣の意味は?

西遊記巻物 書物_書類

 

では、最初に院宣の意味から紐解いてみましょう。院宣とは略語で、正式には「院の宣旨(せんじ)」と言います。宣旨とは上皇や天皇が部下の名前で出す命令書と考えて構いません。

 

京都御所

 

平安時代、天皇の位を退いて上皇になった元天皇が住む御所を院と言い、後白河法皇の住む御所も院と呼ばれていました。やがて院という言葉は御所だけではなく上皇や法皇を指す意味になり、後白河法皇も院と呼ばれるようになります。そんな院が出した宣旨だから「院の宣旨」で「の」と「旨」を省いて院宣と呼ばれるようになったのです。

 

権力を失った後白河天皇

 

ちなみに後白河法皇は後白河上皇と呼ばれる事もありますが、法皇というのは出家して仏門に入った上皇を意味していて、出家していない上皇を法皇と呼ぶ事はありません。

 

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はじめての平安時代

 

 

 

院宣はどうして誕生した?

朝廷(天皇)

 

では、どうして院宣は誕生したのでしょうか?

 

院宣の誕生は院政と密接な関係があります。院政とは天皇の地位を譲位した元天皇である太上天皇、つまり上皇が天皇の上に立って権力を振るう二重権力構造の事です。しかし、どうして権力を振るうのに一度譲位する必要があるのでしょうか?天皇のままで権力を振るう方がずっと簡単な気がしますよね?

 

公家同士の会議(モブ)

 

それは当時、天皇が律令(りつりょう)に縛られて行動が制限され藤原摂関家が摂政や関白、左大臣のような重職を代々歴任して権力を握り、思い通りに政治が出来なかった事が原因でした。

 

そこで、律令に規定がない上皇という地位を作り、摂関政治を切り離しお気に入りの側近を集めて思い通りの政治を開始した。これが院政の始まりで11世紀末の白河上皇の時代から本格化します。

 

上皇は自由に動けるので権力が集中し、多忙になった上皇は口頭で命令を伝えるのに限界が生じます。そこで部下である院近臣(いんのきんしん)院庁役人(いんのちょうやくにん)に命じて書かせた文書が院宣でした。

 

荘園に逃げ込む鉄の職工達

 

こうして院政の仕組みが完成すると、日本全国から上皇に問題解決の便宜を図ってもらおうと荘園や金銭が集まるようになり、富を背景に上皇の権力が強くなります。同時に上皇の意向である院宣にも、強い強制力が宿るようになりました。

 

源頼朝に大天狗と恐れられていた後白河天皇

 

鎌倉殿の13人で頼朝が院宣を有難がったのは、このような背景があったからです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

院宣の形式

源頼朝が清盛の地位に就くのを恐れた後白河天皇

 

院宣は奉書(ほうしょ)という形式をとっています。奉書とは身分の高い人が身分の低い人に文書を出す場合に、自分の名前ではなく部下の名前で出すタイプの文書です。上皇は治天の君(ちてんのきみ)と呼ばれ、当時日本の絶対権力者でしたから、自分の名前で院宣を出す事はなく院庁の役人や、自分のお気に入りの近臣の名前で出していました。

 

文書を出すのに、何人かの手を経る事で自分を権威づける意味合いもあったようです。その際には、それが上皇の意向だと分るよう文書の末尾に

 

院宣如此(いんぜんこれのごとし)(院はこのようにのたまわれた)

院御気色所候也(いん・ごきしょくそうろう・ところなり)(院は、このようにお考えのようである)

 

上記のように記して結ぶのが決まり事でした。

 

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源頼朝

 

 

 

天皇の命令は何というの?

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

上皇の命令書を院宣というのに対し、天皇の命令書は何というのでしょうか?

 

天皇の命令を伝える公式文書は全てひっくるめて詔勅(しょうちょく)と言います。詔勅には詔書(しょうしょ)勅書(ちょくしょ)の2種類があり手続きが違います。詔書は天皇の命令である(みことのり)を文書化したものですが、発給する際には天皇と公卿(くぎょう)全員の署名が必要です。もう1つの勅書は特定の個人や機関に対して出した文書です。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

平安時代になると天皇の仕事が多忙になり手続きを簡略化した宣旨が登場しました。この宣旨には、宣旨と綸旨(りんじ)の2種類あり手続きの形式が違います。宣旨が天皇の命令を秘書である蔵人(くらんど)から上卿(じょうけい)外記(げき)弁官(べんかん)の手順を経て文書化するのに対し、綸旨は蔵人が直接文書化し上卿や外記、弁官を通さずに発給していました。

 

源頼朝追討の総大将として出陣する平維盛.jpg

 

このような違いから宣旨が公的な文書なのに対し、綸旨は私的な個人に向けた文書の性質を持ちましたが、政治的な内容や軍事に関する事など、スピードが重視される文書には手続きが簡単な綸旨が用いられる事が多く、次第に公式な性質を帯びていきました。

 

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源義経

 

 

以仁王の令旨とは?

打倒平家を目指す北条義時と源頼朝

 

鎌倉殿の13人では、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)源頼政(みなもとのよりまさ)と図って平家追討の令旨(りょうじ)を出し、それが全国の反平家勢力を蜂起させていました。

 

では、以仁王の令旨とは何なのでしょうか?

 

令旨は天皇の宣旨よりも1ランク下で、皇太子や太皇太后(たいこうたいごう)、皇太后、皇后の命令を伝えるための文書です。しかし、以仁王は、皇子ではあっても皇太子ではないので本来令旨を発行できません。それが令旨として流通したのは、平家討伐に皇太子のお墨付きが欲しいと考えた反平家勢力の思惑があったのかも知れません。

 

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北条義時

 

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は院宣について解説してみました。

 

漠然と法皇の命令書と考えられがちな院宣ですが、天皇の命令である詔勅や宣旨とも違い。院政を敷いて独自権力を築いた法皇の命令書だと思うと、少し大河ドラマの見方が変わってくるかも知れませんね。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

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