西行法師は平安時代末から鎌倉初期の僧侶で歌人です。
文武ともに秀で、新古今和歌集に94もの和歌が入選するなど歌人としても素晴らしい才能を発揮しました。しかし、そんな西行法師は、どうしてこんなに有名なのでしょう?
ほかの出家した僧侶とは何が違っていたのでしょうか?
この記事の目次
西行法師は何をした人なの?
西行法師は僧侶であり歌人でもありました。しかし、それだけなら平安末から鎌倉時代にかけていくらでもいます。では、西行とそれ以外の歌人との違いは何かというと、西行は旅をしながら行く先々で和歌を詠んだ吟遊詩人みたいな人だったのです。
平安から鎌倉時代にかけての日本は貨幣経済の発達により、西日本には定期市である三斎市(月に3日開く市)が立つようになり、旅のハードルは以前よりも下がっていました。この風潮にのり、いち早く旅する歌人になったのが西行法師でした。
それも西行は老人ではなく、23歳を過ぎたばかりと若く、またルックスも良く才能豊かだったので、そんなイケメンの若き僧侶が旅の中で歌を詠むという哀愁と儚さに満ちたスタイルは後世の歌人に絶大な影響を与えました。
室町時代の連歌師宗祇や江戸時代の俳人松尾芭蕉など西行を尊敬し、そのスタイルを真似た人は大勢います。
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西行法師はなんで出家したの?
西行法師が出家した理由については諸説あります。
西行物語絵巻によると親しい友人が急死した事で人生を儚んで出家したと記録されていますが、近世初期に成立した「西行の物かたり」では失恋によるものだとされています。
それによると西行法師は、御簾の間から垣間見えた※女院に恋して苦悩から死にそうになり熱心に恋文を送り続けます。根負けした女院が情けをかけ一度だけ逢ったものの、その時に「あこぎ」と言われ出家したのだそうです。
あこぎというのは、しつこく図々しいという意味で、今風に言えば粘着ストーカーとして嫌われたという事でしょう。愛する女性にそう言われたら出家したくもなるでしょうね。
※女院(太皇太后、皇太后、皇后、准后、内親王など身分が高い女性の称号)
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世間がザワついた若くしての出家
当時、出家は珍しいものではありませんでしたが、それは仕事を長年務め年老いて隠居してからが普通でした。ところが西行法師の出家は、23歳を少し過ぎたばかりであり、ルックスも良く武芸にも歌にも秀で将来を有望視されていた西行の出家は周囲にセンセーションを巻き起こしたのです。
出家すると還俗(俗人に還る)しない限り結婚も出来ませんし、結婚していれば離婚せねばなりません。
当然、役人として出世するなんて出家の正反対の方向であり、世間の人々は「なんともったいない…一体、何があったのだろう」と色々と憶測し、若くして世間を捨てた西行に注目が集まったのです。
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西行法師の辞世の句は?
西行法師の辞世の句は、
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」です。
如月とは2月、望月は満月を意味し旧暦だと2月15日の満月、新暦なら3月の末から4月の上旬となります。西行法師が死んだのは旧暦の2月16日で奇しくも辞世の句と同じ頃に往生した事になります。
また、如月の花と言えば桜で、桜には人生の儚さが込められているので満開の桜の花に包まれつつも死にゆく寂しさを帯びた歌になっています。
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西行法師の詠んだ和歌の代表作は?
西行法師は生涯に2300以上もの和歌を詠んでいますが、その中で自身が一番としたのは、以下の和歌です。
風になびく 富士の煙の空に消えて 行方も知らぬ わが思ひかなこれは富士の煙が風にたなびいて空の彼方に消えたように、私の思いもどこに行ってしまったのか分からないという意味です。
生涯を旅に生きた西行法師らしい和歌ですが、ここからは当時の富士山が噴煙を上げていた事実が窺えます。火山学の観点からも興味深いのではないでしょうか?
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西行法師はどこからどこまで移動した?
西行法師は出家した後、東山、嵯峨、鞍馬などで草庵を結び、30歳頃に陸奥への長旅に出ます。その前後に高野山に入り、仁安3年(1168年)には崇徳院の白峯陵を訪ねるために四国に旅しました。
それから高野山に戻り、治承4年(1180年)伊勢国に移り、文治2年(1186年)東大寺再建の勧進のため2度目の陸奥旅行をして藤原秀衡に会い、その後鎌倉で源頼朝に会っています。
伊勢国に数年留まった後で、河内国石川郡弘川にある弘川寺に庵を結び建久元年(1190年)に、この地で73歳で死去しています。全国行脚とまではいきませんが、東北から四国、畿内まで自分の足で歩き、旅に生きた人生である事が分かりますね。
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西行の元の名前は?
西行法師の出家前の名は佐藤義清です。母方の系統は不明ですが、父方は藤原北家の藤原魚名を祖とし、佐藤の苗字は義清の曾祖父、公清から称したようです。
佐藤家は祖父の代から公家の徳大寺家に仕え、義清も15歳頃から徳大寺実能に出仕し、鳥羽上皇の時代には、北面の武士としても活躍するなど和歌だけでなく武芸にも優れていたようです。
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西行法師の宗派は?
西行法師の宗派についてはよく分かりません。また、誤解されがちですが西行は号であり、僧としての名前は円位です。
西行法師は、最初天台宗で修業しますが、その後真言宗に傾倒し高野山に入ります。しかし同時に吉野から大峯山、熊野で修験道の厳しい修行を二度も成功させました。かと思えば晩年には伊勢神宮にもかかわりを持ち、神道にも接近しています。
当時の日本は神仏習合の時代でしたし、西行もさほど厳密に宗派をこだわらず自由に信仰をしていたという事でしょうか。
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西行法師の出身地は?
西行法師の出身地は、佐藤氏の支配した紀伊国田仲荘とする説があり、また佐藤氏は生活基盤が京都にあるので西行法師も京都出身者とする説があり、まだ決着がついていません。
西行法師はいつの人?
西行法師は元永元年(1118年)に誕生し建久元年(1190年)に死んでいるので、平安時代末から鎌倉時代初頭の人だと考えられます。同時代人には後白河法皇や平清盛、源義朝がいます。
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西行の由来は?
西行という言葉に特に意味はないそうです。しかし、西行法師が西行と名乗って旅をした事で、諸国を遍歴する人々の事を西行と呼ぶようになりました。例えば大工の世界は一人前になって、さらに棟梁になるために他所に修行に出る事を西行と言うのだそうです。
つまり、西行は意味がなかった西行に自分の行動で意味をつけたのです。これはなかなかスゴイ事ではないでしょうか?
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西行と人造人間
西行が高野山で修行していた時、人恋しくなったので鬼が人骨を集めて人間をつくる要領で人造人間を造る事にします。やたらに軽い動機ですが、呪法を知っていた西行は野原から骨を拾い人の形に並べて香木を焚き秘術を施すと、あらビックリ人造人間が完成しました。
ところが、出来上がりの人造人間は失敗作で血色も悪く、吹き損じの笛の音のような声が出るだけでどうしようもなく高野山の山奥に捨ててしまったそうです。
その後、人造人間の作り方を知っているドクターゲロみたいな人に秘術の誤りを指摘してもらい、ちゃんとした術を使えるようになりますが、その後はつまらなくなり人造人間づくりは止めたそうです。
日本史ライターkawausoの独り言
今回は西行法師について簡単に分かりやすく解説してみました。昔から諸国を遍歴するお坊さんはいましたが、歌を詠みながら諸国を歩いた若いイケメンお坊さんは西行が最初だったんですね。
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