いよいよ物語の2/3を終え佳境に入ってきたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
初期のコメディー要素はどんどん薄れていき、有力者が次々と誅殺される中、これまでは結束を守ってきた北条一門にまで亀裂が入っていきます。そんな中、比奈に逃げられた義時は運命の女性のえ(伊賀の方)に出会うのですが、なんと伊賀の方には義時を毒殺した噂があるそうなのです。
伊賀の方とは?
伊賀の方は藤原秀郷の流れを汲む関東の豪族、伊賀朝光の娘ですが生没年などは不詳です。北条義時の後妻になったのは建仁3年(1203年)比企能員の変を受けて義時が比企氏の血を引く前妻姫の前と離婚した後です。
伊賀の方は元久2年(1205年)に義時の子である北条政村を出産、承元2年(1208年)には北条実泰を出産しました。ここから義時の死後まで特に伊賀の方に関する記述はありません。
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義時の死後伊賀氏の変を起こす
貞応3年(1224年)7月、北条義時が急死します。これが妻である伊賀氏の毒殺であると噂されていますが、それは後で述べるとして、ここでは伊賀氏の変を簡潔に述べます。
鎌倉時代当時、女性の地位は高く本来なら義時の死後、北条家の後継者については正室である伊賀の方に一番発言権があるはずでした。
しかし、義時が死んだ事で北条氏との関係が切れてしまう事を恐れた尼将軍北条政子は、義時の庶長子である北条泰時を京都から呼び戻して、義時の法要を盛大におこなわせ、泰時こそが次の執権であると強力にプッシュします。
追い込まれた伊賀の方は、本来の権利を取り戻そうと兄伊賀光宗と共謀。実子政村を幕府執権に就任させ、娘婿の一条実雅を5代将軍に擁立しようと計画しました。
頑張った伊賀氏ですが40年近く鎌倉で政治を見てきた政子には敵わず、鎌倉御家人は泰時に従って謀反は失敗、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となります。これを伊賀氏の変と言います。
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明暗が分かれた首謀者達
政争に敗れた伊賀の方は、政子の命令で伊豆の北条へ流され、僅か4か月後危篤となった知らせが鎌倉に届いていて、まもなく死んだと考えられます。
伊賀の方の兄、一条実雅は流罪となった越前で変死したとされますが、尊卑文脈では「河死」と書かれていて「河で死んだ?もしや善児」と鎌倉殿ファンを戦慄させます。
一方で伊賀の方の兄、伊賀光宗は北条政子の死後に罪を許され所領を回復し80歳まで長生きし、執権に担がれた政村も泰時の計らいで許され幕政に復帰しています。
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伊賀の方による義時毒殺説とは?
北条義時の死について、鎌倉幕府の公式歴史書である「吾妻鏡」では、義時は脚気を長い間わずらっていて、その後、夏の暑さにより熱中症を併発し体調が急激に悪化して死んだとされています。
脚気はビタミンB1欠乏によって起きる栄養失調の症状で、手足がむくんでしびれ、歩いていても突然転ぶなど歩行が困難になります。そのまま放置しておくと最後には心臓が止まって死に至るので脚気衝心と呼んだりします。
ところが吾妻鏡と同時代の京都の公家、藤原定家の日記「明月記」には、あくまで風聞と断りを入れた上で、こんな事が書かれていました。
”噂によると、一条実雅の兄で承久の乱時に上皇様について逃亡していた尊長が、幕府に捕まり六波羅探題で尋問を受けた時、苦痛に耐えかね「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで探題の武士は驚き呆れた。しかし尊長は「わしは死を覚悟している、どうして嘘を言う必要があるか?」と重ねて毒を所望したそうな”
この尊長は、伊賀氏の変に加担した一条実雅と異母兄弟の関係にあるそうで、伊賀氏の変になんらかの加担をしていて、毒殺の事実を知っていたと考えられます。
だとすれば、伊賀氏による義時毒殺もありえないとは言えないわけです。
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推測、伊賀の方義時毒殺説
にわかに信じがたい伊賀の方による義時毒殺説ですが、義時が急死した事や譲状(遺言状)を残していない事などから信憑性が高いと考える学者もいるそうです。
伊賀の方による義時毒殺説を取るならば、このような仮説を立てる事が出来ます。
義時の脚気が悪化していた事で、伊賀の方は将来を憂慮し3代目執権を息子の政村に指名してくれるように譲状(遺言書)を書いてくれと頼んだ。
義時は追々書くと約束していたが、ある時、「やはり政村では若すぎて不安だ。執権職は泰時に譲り、政村に経験を積ませてから譲るようにさせる」と前言を翻した。
伊賀の方は、義時の死後に泰時が約束を守る証拠がないと反対するが義時は取り合おうとせず、将来を悲観した伊賀の方は兄である伊賀光宗に相談。
光宗は義時を毒殺し後家の権限で政村を執権に擁立し、一条実雅を5代将軍に据えて鎌倉を完全に掌握すべしと答え、伊賀の方は実行したが、政子は類まれな政治力で伊賀氏の変を阻止してしまった。
こんなふうに考えると、伊賀の方による義時毒殺もなくはないと思います。
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義時毒殺は現時点で理論的に弱い
とはいえ、カワウソの推理は全くの小説で伊賀の方と義時に、そんな会話があったという証拠は何もありません。
また、毒殺説の張本人である尊長ですが、異母兄弟とされる一条実雅とは30歳以上も年齢が離れています。そればかりか、承久の乱で後鳥羽上皇方についた尊長に対し、一条実雅は四代将軍になった三寅を補佐して鎌倉に下向し、そこで人脈を作り、承久の乱でも後鳥羽上皇と連絡を取った様子がありません。
そればかりか、伊賀光宗の弟の伊賀光季に至っては承久の乱の時に京都を守り、後鳥羽上皇の勅命を受けたにもかかわらず上皇の軍に参加する事を拒否、上皇方に攻められて討ち死にしています。
尊長は承久の変で自分の敵である鎌倉についた伊賀氏と伊賀氏の変では手を組んだのでしょうか?とてもそうは思えず、むしろ憎んでいたと考えても自然です。
だとすると、尊長の伊賀の方が義時に毒を飲ませたという発言も仲が悪い伊賀氏に対する当てつけで、死ぬ前に「義時殺し」の悪名を伊賀氏になすりつけてやれ、という虚言だったと考える方が真実に近いような気もするのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
伊賀氏の変は吾妻鏡に記載がなく北条政子の処置で伊賀氏が処罰されたとあるだけで、北条泰時は「謀反などない落ち着け」と動揺する御家人を叱りつけたとあります。
その事から伊賀氏の変は北条政子によるでっち上げで、伊賀の方は政子の邪魔になるので冤罪で処分されたとも言われています。
しかし、謀反とまではいかなくても義時の後継者を巡り、伊賀の方や政子、泰時の間で争いが起きていたのは事実であり、また今回は触れていませんが、義時の次男で姫の前の子である北条朝時も独自に義時の四十九日法要を執り行うなど不穏な動きを見せていました。
もし泰時が伊賀氏の謀反はあったと言えば、政村の処分は避けられず、そうなれば朝時も明日は我が身と危機感を抱いて挙兵したかも知れません。泰時としては事を荒立てたくないという思いから伊賀氏の謀反はない!という発言になったかも知れませんよ。
参考:北条義時の死と前後の政情 山本みなみ(鎌倉歴史文化交流館学芸員)
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