NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」その登場人物でうさん臭さにおいて源行家とトップを争うのが市川猿之助の演じる文覚でしょう。
薄汚い坊主の姿で頼朝の前に出現し、頼朝の父、義朝のモノと称する髑髏を売りつけてきて頼朝に二度と来るなと追い返されていました。しかし、史実の文覚はただうさん臭いだけではなく偉大な功績を挙げた人でした。
元は摂津源氏渡辺党の武士だった文覚
文覚は摂津源氏傘下の武士団、渡辺党・遠藤氏の出身のサムライで北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていましたが19歳で出家し真言宗の僧侶、文覚と名乗ります。
その後、京都高雄山神御寺の再興を後白河法皇に強訴したので疎まれ渡辺党の棟梁、源頼政の知行国だった伊豆に流され、近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み同じく伊豆国蛭ヶ島に流されていた頼朝と交流を持ちました。
文覚の人生は、ここから大きく変化していきます。頼朝が挙兵して平家や奥州藤原氏を討伐し、権力を掌握していく過程で文覚も見いだされ後白河法皇の庇護も受けるようになったのです。
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出家の経緯
源平盛衰記によると、文覚の出家の原因は以下のようなものです。
上西門院に仕える女房に袈裟御前という絶世の美女がいた。
当時、北面の武士として上西門院を守っていた遠藤盛遠は、その美しさと気品に心を奪われ己のものにしたいと情欲を持ったが思いを遂げる事のないまま、袈裟御前は同僚の源渡に嫁ぐことになった。
しかし盛遠は情欲を捨てられず人妻になった袈裟御前に執拗に言い寄った。袈裟御前は、自分はすでに人妻であるからと丁重に断り続けるが、盛遠の執心はいよいよ募るばかりで、ついには「思いを遂げられぬならば、そなたの母を殺し拙者も腹を切る」と脅迫めいた事を言い出した。
困った袈裟御前は一計を案じて、盛遠にこのように言った。
「そのように私を想っておられるのなら夫を殺してください、そうすればあなたと一緒になりましょう」
盛遠は承知し、袈裟御前に言われた通り、夜中に屋敷に忍び込み寝入っている同僚、源渡の首に太刀を振り下ろした。しかし明かりを灯して落とした首を見てみると、それは渡の首ではなく男装した袈裟御前の首であった。
彼女は夫や母を守り、同時に貞節を貫こうと考え、自分が盛遠に殺される事で幕引きを図ったのである。己の手で愛した袈裟御前の首を切った盛遠は半狂乱となり首を抱えて屋敷を飛び出し、何日間も鞍馬の山奥をさまよい、後悔の念に駆られた末に俗世を捨て名も文覚と改めたのだ。
この話は平家物語のフィクションのようですが、アタオカ坊主、文覚らしい逸話です。
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文覚の功績
文覚は頼朝や後白河法皇の庇護を受けると、神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江ノ島弁財天など各地の寺院を勧請し、所領を回復し建物を修復するなどしました。また頼朝のもとへ弟子を派遣して平維盛の遺児、六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護しています。このように文覚は、ただのアタオカ坊主ではなく、戦乱で荒れ果てた仏閣を立て直した人でもあったのです。
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アタオカな側面
しかし、文覚の一番の特徴は、アタオカとさえ言える行動力でしょう。
同時代に藤原兼実が記した日記、玉葉によると文覚は頼朝の命令で木曾義仲の元へいき、平家追討が進んでいない事や京中での乱暴狼藉を批判させたそうです。これにしても、一歩間違えば首が飛んでしまう事ですが、文覚はそのアタオカ部分で、これを成し遂げたのでしょう。
また、同時代の天台宗僧侶だった慈円の書いた「愚管抄」によると文覚はアクティブだが学問がなく、あさましい性格をしていて、人の悪口を言いふらし天狗を祭るなどの奇行をしていると書いています。
さらに、鎌倉末期の歌人頓阿が書いた井蛙抄によると、文覚は同時代の僧侶、西行を憎んでいて「世を儚んで遁世したからには仏道三昧に生きるべきなのに、和歌なんぞに手を出して大先生と崇められ、まんざらでもない顔をしている。あんな奴は許せない!今度顔を見たら、どこだろうと頭を勝ち割ってやる」と坊主とは思えない暴言を吐いたのだそうです。
ここには、歌人として大成した西行に対する嫉妬が入っているような気もしますが、なんにしても、悟りとは無縁の欲望全開な文覚の一面が垣間見れます。
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超人としての側面
一方で平家物語の文覚は、海の嵐を鎮める巨大な法力を持つ修験者として描かれ、頼朝に父、義朝の髑髏を見せて決起を促し超人的歩行速度で日本各地を移動したり、下手に逆らうと祟りを起こす超能力者として描かれます。
大河の髑髏うんぬんは、この平家物語の逸話から取られたものなんでしょうね。
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三左衛門事件に巻き込まれ、その後死去
そんな文覚ですが、源頼朝急逝直後の正治元年(1199年)2月に三左衛門事件に巻き込まれます。
これは、一条能保・高能父子の遺臣が頼朝と結びつき権勢を振るっていた土御門通親を殺害し権力を奪い返そうとした事件で、首謀者の後藤基清、中原政経、小野義成がいずれも左衛門尉だったので三左衛門事件と呼ばれます。
土御門通親は頼朝の権勢をかさにきて、自分の外孫を土御門天皇として即位させ、頼朝の急逝があったにもかかわらず、二代将軍頼家を左中将、自身の官位を右近衛大将に上昇させようとするなど貴族からも幕府からも反感を買っていました。
後藤基清、中原政経、小野義成は今ならば、幕府から見放され朝廷で敵が多い土御門通親を排除できると屋敷に武士を集め襲撃を準備しますが、鎌倉幕府が通親支持の姿勢を見せた事で計画が頓挫、捕らえられたのです。
文覚は三左衛門一味に参画しており、検非違使に捕らえられて佐渡に流されます。その後土御門通親が急死した事で京都に戻りますが、後鳥羽上皇に対し、謀反を企んだという罪で対馬に流される事になり、その途中鎮西で病死しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は怪僧文覚について解説してみました。
平家物語や源平盛衰記において神通力を持っていたり、他人の妻に横恋慕した上に、その首を切り落としてしまうなど、劇的かつ大幅に脚色された文覚ですが、同時代の史料でも、京都を抑えた朝日将軍木曾義仲を叱りつけ尋問するような事をしていたり、人の好き嫌いが激しく、和歌の道で高名な僧侶、西行の頭を勝ち割ると発言するなど、アタオカな面も強く持っているかのように思います。
しかし、愚管抄で慈円が指摘したように、その狂気が常人の及ばない行動力として噴出したからこそ、文覚はいくつもの寺を建て直すことが出来たのでしょう。文覚は源平争乱の時代があってこそ輝いたアタオカ僧侶だったのです。
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