西郷隆盛と大久保利通は、NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」を見ても 幼馴染みの親友のように描かれています。
しかし、これは後世に生まれた考えであって生前の2人の関係は上司と部下、師匠と弟子の関係であり対等ではなかったようなのです。
そもそも、西郷と大久保では西郷が3歳年長でしかも同じ郷中に所属していました。今より長幼の序が厳しい幕末では、大久保は年長の西郷に教えを乞う立場で、ずーっと西郷パイセンだったわけです。
明治維新後の論功行賞でも西郷が永世録二千石と正三位であったのに対し大久保と木戸孝允は永世禄千八百石、従三位でした。大久保と木戸孝允を同条件で報いる事で薩長のバランスを取っていますが西郷だけが別格の扱いです。これが明治初年においての新政府における西郷と大久保の立場の差というものだと考えられます。
大久保の地位は、西郷が下野した後に上昇して内務卿として維新政府の頂点に上がりますが、それ以前には、常に西郷の風下だったとも言えるわけです。では、そんな2人がいつから無二の親友扱いになるのか?
『西郷隆盛 維新150年目の真実』を書いた家近良樹氏によると、1934年に鹿児島の有志が大久保利通の像を建立しようとして出版した本 「皇国史観を代表したる西郷南洲と大久保甲東」が関係しているのではないかとの事、現在もですが、以前から大久保は西郷を殺した悪党として不人気であり、特に地元で嫌われていました。
本来なら上野の西郷像のように募金で銅像を建てたかったのですが、とても、それほどの金額は集まるまいと有志は考え出版物の売り上げで銅像を建立しようと考えたとか。そして、本を売る為に西郷と大久保が幼馴染で無二の親友であり協力して維新の大業を為したという筋書きを強調したというわけです。この本は四版を重ねますが、その後も売れたかは不明です。
しかし、この昭和初期あたりから西郷と大久保は先輩後輩ではなく、年の差を越えた無二の親友であり、共に明治維新の成就に貢献したという考えが誕生しNHK大河のようなテレビドラマから世間に流布していったのではないかと考えられます。
もっとも両者は幕末から手紙のやりとりをしていて、親しい関係ではあったかも知れませんが、それは友達のようなフランクなものではない越えられない年齢の壁を交えたものだったのかも知れません。
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