明治10年、日本最後にして最大の内乱である西南戦争が起こります。賊軍となったのは維新三傑筆頭である西郷隆盛陸軍大将でした。
しかし、海軍を保有せず補給が続かない西郷軍は物資と兵力に上回る新政府軍に大苦戦し軍資金も枯渇、その中で西郷札と呼ばれる紙幣を発行しました。実は、この西郷札、日本史上二番目に発行された軍票だったのです。
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西郷札、瓢箪島で製造
熊本城を攻めていた西郷軍は、田原坂の激戦で新政府軍に敗北。ついに東京への進撃を諦め熊本から宮崎方面へと転進に次ぐ転進を開始しました。それと同時に軍資金も底を突きます。
この問題を受けて桐野利秋らが発案したのが西郷札でした。造幣所は現在の宮崎県宮崎市佐土原町にあった瓢箪島で、贋金造りの罪で服役していた罪人を釈放し製造に当たらせたと言われています。
額面は10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭の六種類あり、9300枚、総額17万円分も発行されます。また紙幣と言っていますが、実際は布製で寒冷紗を2枚張り合わせてその芯に紙を挟んで補強したものでした。
一部には西郷どんのお札と言って有難がり商品を売る商人もいたそうですが、敗走している西郷軍の発行紙幣に信用はほとんどなく、西郷軍の軍事力で無理矢理に流通させているだけに過ぎませんでした。
ただ、この西郷札には普通の紙幣と違う点がありました。それは額面に通用三年限りと記載されていた事と管内通宝と書かれていた事でそれは西郷札が軍票の性質を持っている事を表しています。
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占領地を保護する名目で生まれた軍票
軍票とは、正式には軍用手票と言い特定の戦地でのみ通用するお金の事です。
有史以来、古今東西の侵略軍は戦地での略奪により軍隊需要を賄う事が多かったのですが、この方法は占領地住民の反発を招き、占領後の統治を難しくすると同時に現地経済を破綻させる事に繋がりました。
特に、欧州では18世紀後半以降、啓蒙思想の普及で国民国家の概念が広まり、ナショナリズムの高揚から敵地においてゲリラ活動が盛んになり侵略軍の強引な調達や略奪はゲリラ活動を激化させる事に繋がりました。
そこで、1815年、英仏戦争時のイギリスは初めて軍隊手形を導入し、占領地での物資調達に使用、戦争の終結後に手形を回収して紙幣と引き換えるようにします。
これは現地の住民感情悪化を最小限に抑え、経済を破壊しないで済む方法となり、欧州各国が軍隊手形を導入し、それは使いやすいように紙幣の形を模したものになり軍用手票、軍票へと進化し西南戦争で西郷軍も採用しました。
そして、奇しくも西郷札は日本が史上二番目に発行した軍票になったのです。
ただ、明治政府は西郷札を贋金として切り捨て一切償還しなかったので、正真正銘、軍票だったかというと疑問で期限付き贋金という方が正確かも知れません。
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明治政府が補償しなかった西郷札だが
西南戦争が終わると西郷札を無理矢理押し付けられた商人たちは、明治政府に西郷札の買い取りを求めますが、政府は賊軍の偽札を買い取る必要はないと突き放し、一銭も換金しなかったので、西郷札が紙屑になって負債を抱えた商家が多く没落したそうです。
しかし、西郷札自体は明治政府が没収したので残存枚数が少なく西南戦争後に西郷人気が高まった事もあり、多くのコレクターにお金ではなくお札として珍重され、明治13年の話では、偶然に手に入れた西郷札を神棚に飾り、お酒とお菓子を備えた薬屋の話が見えています。
こうして、明治政府から偽物と切り捨てられた西郷札は、現在は美品であれば数万円するレアアイテムになっているのです。
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一番目の軍票もやはり西郷どん関係
西郷札が日本で二番目の軍票と書きましたが、では最初の軍票は何なのでしょう?
一番目の軍票は承恵社札と言い、これも西郷軍が戦費調達の為に、鹿児島の士族商社「承恵社」「撫育社」から発行したものでした。
承恵社札は総額6万円が発行され、5円、1円、半円の三種類があったそうですが、西郷札と違い明治11年にちゃんと償還されました。償還出来たという事は明治政府が紙幣だと認めたという事なので、承恵社札が日本史上最初の軍票である事は疑いないのではないかと思います。承恵社札は償還されたので、やはり市中に残っている量は少なく美品は数万円の値がつくレアアイテムになっています。
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西郷天保
西郷軍は西郷札だけでなく、造幣所を置いた佐土原で偽の天保通宝や二銭銅貨の鋳造もしていたようで、天保通宝の方は西郷天保と呼ばれていました。こちらは本物よりも小ぶりで鋳上がりも悪く粗雑な貨幣だったようです。
しかし、あの手、この手のなりふり構わないやり方を見ていると資金不足に悩み、なんとかして物資を調達したいという西郷軍の台所事情が伝わってきますね。
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資金面で圧倒された西郷軍
どうして西郷軍が、ここまで資金調達に躍起になったのか?
それは明治政府軍が当時の一般会計支出の70%にもなる4222万円もの巨額を戦争に突っ込んできたからでした。
一方、西郷軍の戦費は70万~100万円と圧倒的にとぼしく、さらには戦争中にそれも枯渇して軍票や贋金製造に奔走する事になります。また政府軍は戦費の30%を軍夫支払いに充て、戦争で徴発した人夫の手間賃や物資調達に未払いがないように細心の注意をしました。これらは民心が西郷軍になびかないようにするのに絶大な効果がありました。
同時に政府軍は兵士にも正規給与のほか、手柄を立てると報奨金を出すなどしたので士気も旺盛であり、物資調達費の未払いや所々で略奪が起きた西郷軍とは雲泥の差がありました。資金の乏しさは西郷軍に不利に働いたのです。
日本史ライターkawausoのまとめ
今回は、日本で二番目に発行された軍票、西郷札について書いてみました。戦場で流通するお金、軍票については知らない方も多かったのではないでしょうか?
西郷軍が略奪という方式を取らない為、苦肉の策として採用した西郷札でしたが、敗色濃厚な西郷軍が発行したお金を喜んで受け取る商人はいませんでした。
現在価格で34億円分も発行された西郷札を押し付けられた上、戦後は西郷札が紙屑になって破産した商人たちにとって西郷札は災厄以外のなにものでもなかった事でしょうね。
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