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足利茶々丸とはどんな人?カワイイ名前とは全く違う壮絶な武将人生


真田丸 武田信玄

 

戦国武将には(いか)めしい名前やカッコイイ名前の人が大勢います。しかし、戦国武将で一番カワイイ名前と言えば足利茶々丸(ちゃちゃまる)でしょう。

 

 

茶々丸は、鎌倉公方足利政和の子で、さぞかし可愛がられたかと思いきや、素行に問題がある不良で、継母(ままはは)にも虐待を受けるなど壮絶な人生を送った人でした。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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素行不良で土牢に監禁される

 

足利茶々丸は文明年間(1469年~1487年)に初代堀越公方(ほりこしくぼう)足利政知(まさとも)の嫡男として誕生しました。しかし、カワイイ名前に似ず茶々丸は粗暴な不良であり、父の政知が激怒し屋敷内の土牢(どろう)に監禁され弟の潤童子(じゅんどうじ)嫡子(ちゃくし)とされます。

 

一説では、潤童子の実母の円満院が子に後を継がせようと政知に茶々丸を讒言(ざんげん)したためとも言われているそうです。だとすると、茶々丸は元々良い子だったのに一方的に土牢に押し込まれて性格が歪んだのかも知れません。ですが継母の円満院と言い100%名前を裏切った行動を取っているのがスゴイですね。

 

一応、正当な鎌倉公方である足利政知には執事として上杉政憲(うえすぎまさのり)がついていて、茶々丸の廃嫡を諫めたそうですが、政知は聞き入れずに政憲を自害させました。

 

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虐待にブチ切れ継母を殺害

仙台城

 

延徳(えんとく)3年(1491年)4月、父の足利政知が死去すると、継母の円満院による茶々丸の虐待(ぎゃくたい)が始まります。

 

このあたりで茶々丸の堪忍袋(かんにんぶくろ)がブチ切れたのか、同年7月に茶々丸は牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決定していた潤童子と円満院を殺害。こうして実力で堀越公方に昇り詰めました。

 

実は茶々丸には、潤童子以外にも兄弟がいて彼は内紛が起きる前に、父である足利政知の命令で伊豆を離れて上洛。出家して、清晃(せいこう)と名乗っていましたが彼は円満院を生母としていました。そして、この清晃の存在が後々に意外な形で茶々丸を追い詰める事になります。

 

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はじめての戦国時代

 

重臣を殺害し伊勢宗瑞に伊豆を奪われる

 

堀越公方に就任した茶々丸ですが、父の政知同様に奸臣の讒言(ざんげん)を信じ筆頭家老の韮山城主(にらやまじょうしゅ)外山豊前守(とやまぶぜんのかみ)秋山新蔵人(あきやましんくらんど)などの重臣を斬殺。これにより茶々丸は家臣の支持を失い、内紛は伊豆国内に波及します。

 

明応2年(1493年)10月、興国寺城にいた伊勢宗瑞が混乱に乗じ鈴木繁宗(すずきしげむね)松下三郎右衛門尉(まつしたさぶろうえもんじょう)大見(おおみ)三人衆のような伊豆の豪族を従えて伊豆に攻め入りました。こうして茶々丸は伊勢宗瑞と戦う事になりましたが、勝敗はこの時点でほとんど決していたのです。

 

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将軍足利義澄の生母を殺した事が仇に

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

どうして茶々丸の敗北が確定したのか?

 

それは、明応(めいおう)の政変で10代将軍足利義材(あしかがよしき)が細川政元、日野富子らに追放され、茶々丸の兄の清晃が還俗(げんぞく)して11代将軍、足利義澄(あしかがよしずみ)になったからです。

 

義澄は生母(円満院)を殺した茶々丸を憎み、伊勢宗瑞に茶々丸討伐を命じました。伊勢宗瑞は、この大義名分を最大限に利用し頭を丸めて出家し円満院の死を悼んだとも伝えられていますが、恐らくポーズでしょう。

 

しかし、ポーズであれ実際の円満院が円満とは程遠い人物であれ、大義名分は絶対であり僅かに茶々丸に味方していた伊豆の豪族も不忠者になる事を恐れて茶々丸から離れて行ってしまいます。

 

城から逃走する斎藤龍興

 

こうして、茶々丸はろくに戦えずに伊勢宗瑞に破れ伊豆から逃げていきました。まさか出家して京都に行った兄が将軍になり、自分が将軍の母を殺した反逆者になってしまうとは、茶々丸は運が悪い人ですね。

 

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伊豆奪還を願うも伊勢宗瑞に破れ自害

 

従来は、茶々丸は宗瑞に勝てずに伊豆韮山の願成就院(がんじょうじゅいん)で自害したとされていましたが、実際は明応4年(1495年)宗瑞により伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼り、伊豆奪回を狙っていた事が近年の研究で明らかになっています。

 

しかし伊豆奪還はかなわず明応7年(1498年)8月甲斐国で宗瑞に捕まり自害しました。自力で地下牢を脱出して生母と異母弟を殺し堀越公方になるまでは、ダークヒーローな感じでカッコ良かったですが、相手が悪すぎましたね。

 

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どうしてカワイイ名前なの?

 

足利茶々丸はどうして、カワイイ名前なのでしょうか?それは茶々丸が、元服する前に死んでしまったからでした。

 

つまり茶々丸とは幼名であり、本来なら元服した時に大人の名前を貰うはずが、堀越公方の座を巡る混乱の中で元服が出来ずそのまま伊勢宗瑞との戦いに突入してしまったからです。

 

もっとも実際には元服していて、足利政綱(あしかがまさつな)と名乗ったという話もあるそうですが、根拠のある話ではなく、疑問が残るので保留されたままであるとか…でも、茶々丸のインパクトが強すぎて、今後元服後の名前が出てきても普及しないような気がします。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

カワイイ名前とは裏腹に素行不良で土牢に監禁され、円満院という継母に虐待を受け、返り討ちにして自力で堀越公方になった足利茶々丸。しかし、円満院を生母とする足利義澄が将軍に就任したせいで逆賊に認定。

 

さらに讒言により重臣を殺害したせいで人望を失い、伊勢宗瑞に国を奪われてしまい、若くして死んでしまう事になりました。これで名前が義冬(よしふゆ)とか、義厳(よしいわ)とかカッコイイ名前なら悲劇が際立つのですが、茶々丸というのが悲しいです。でも逆に、ギャップのおかげで一度覚えると忘れませんけどね。

 

参考:Wikipedia

 

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カワウソ編集長

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