浅井長政は、NHK大河ドラマ「どうする家康」において義に厚い戦国大名として登場します。徳川家康や木下藤吉郎も一目置いた浅井長政とはどんな人物だったのでしょう?また、ドラマのように家康との仲は良かったのでしょうか?
この記事の目次
六角氏の人質として観音寺城で生まれた浅井長政
浅井長政は天文14年(1545年)浅井久政の嫡男として、六角氏の居城南近江の観音寺城下で生まれます。幼名は猿夜叉丸、通称は新九郎です。浅井氏は長政の祖父、浅井亮政の時代に下克上の風潮に乗って主筋の北近江守護京極氏を追い落としていましたが、父の久政の時代に南近江守護六角氏との合戦に敗れて屈服します。
新九郎も六角氏の人質となり当主の久政は六角氏との外交に力をいれ、北近江をようやく維持するのが精一杯でした。つまり長政は戦国大名といえど決して恵まれたスタートではなく、家康並みの困難を体験していました。
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野良田の戦いで六角氏を破り浅井氏の家督を継ぐ
新九郎が元服すると主君である六角義賢は、浅井の従属を強化しようと長政に義賢の一字を与え賢政と名乗らせると共に平井定武の娘との婚姻を強制しました。しかし永禄3年(1560年)長政は六角軍を野良田の戦いで破ります。こうして浅井家臣の人望を集めた賢政は家督を久政から強奪し、平井氏の娘を観音寺城に送り返し名前も賢政から新九郎に戻し六角氏から自立します。
永禄6年(1563年)六角氏が観音寺騒動で分裂すると六角を見限り、浅井に仕官する武将が続出します。これに対し六角氏は失地を回復しようと、新九郎が美濃に遠征に出た隙を突いて軍を動かしますが、長政は軍を反転させて六角氏を撃破しました。
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上洛と美濃攻略を狙う信長と婚姻関係を結ぶ
同じ頃、斎藤龍興との戦いに苦戦していた織田信長は、浅井新九郎に接近し、妹、お市との縁談を打診してきます。こうして、遅くとも永禄10年(1567年)9月頃までに、浅井新九郎は信長の妹の市を正室とし名前も信長の一字を拝領し長政と改めたのです。
永禄11年(1568年)7月足利義昭は尾張の織田信長に身を寄せ上洛を要請。同年9月信長は上洛を開始し、迎撃してきた六角氏を撃破し本拠地観音寺城を奪取します。浅井軍は織田軍と共に上洛しました。
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徳川家康と浅井長政の関係は?
ドラマでは、徳川家康も織田信長と上洛し、そこで浅井長政に出会っていますが、それは事実ではなく、家康は上洛軍に援軍として大伯父の松平信一を送っているだけです。ただ、織田信長から見ると、徳川家康は東の最も重要な同盟相手であり、浅井長政は義弟でもあり、また、京都近郊を抑えるのに重要な存在でした。
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どうして浅井は織田信長を裏切ったのか?
しかし、長政と信長の蜜月は突如として崩壊します。元亀元年(1570年)、信長が徳川家康と共に琵琶湖西岸を通って、若狭と越前の朝倉方の城の攻略を開始すると浅井長政は突如信長を裏切り織田と徳川軍の背後を奇襲、完全に虚を突かれた信長は、殿を務めた木下藤吉郎や明智光秀の働きで窮地を脱します。
浅井長政の裏切りについては、現在でも確かな事は不明です。裏切られた信長でさえ「浅井が裏切ったァ?たわけ!フェイクニュースじゃあ!」としばらく信じなかったほどです。これについては従来、朝倉氏との同盟関係を長政が重視したためとの俗説がありますが、そもそも、浅井と朝倉の同盟関係は亮政・久政の代を通じて否定されています。
ただ、一説で長政が六角氏から自立した際、朝倉義景と従属関係を結んだとする説も出てきています。別の説では織田信長の朝倉討伐自体が、将軍足利義昭の命令によるものであり、信長は将軍命令なので固辞できず、それに対して浅井が裏切って朝倉に与した事は寝耳に水の理不尽な行動であったとする説もあります。それ以外にも長政は信長と対等同盟を考えていたのに対し、信長は浅井氏を臣従していると考えて家来として扱い、その点への不満が長政を裏切らせたとする説もあります。
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姉川合戦で徳川家康と戦う
元亀元年6月24日、浅井、朝倉、六角氏の挟撃を潜り抜けて岐阜に帰還した信長は、兵を立て直し、再度北近江に進出、小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し信長自身は竜ヶ鼻に布陣します。ここに徳川家康が率いる軍勢が合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。織田徳川連合軍は13000人になります。一方、浅井軍にも朝倉景健率いる援軍が到着し、朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵が合流し浅井・朝倉連合軍も13000人となりました。
6月27日、浅井朝倉連合軍は陣払いして兵を引きますが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分離して野村と三田村に布陣。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと突撃しました。午前6時頃に戦闘が始まり浅井方も姉川に進撃し激戦が展開されますが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康が、榊原康政に命じて側面から攻め立てると朝倉軍が支え切れずに敗走、次に孤立した浅井軍が敗走しました。姉川の戦いの勝利は負け続きで嫌なムードが漂っていた織田軍の憂いを払拭させ家康率いる三河衆の武勇を天下に轟かせる事になりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
浅井長政と徳川家康は特に接点はありません。しかし、両者とも父親の代に家が没落し、自身の力量で家を再興した事や、織田信長に特に信じられたなど奇妙な共通点はあります。逆に大きな違いは浅井長政が信長を裏切った事に対し、家康は裏切らなかった点でしょうか?
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