日本を700年近く支配した武士。そんなサムライの必須アイテムと言えば、刀に鎧兜、槍、それに馬ではないでしょうか?
しかし、そんなサムライの必須アイテムには、まるでパラシュートのような母衣と呼ばれるアイテムもありました。今回は武士の7つ道具に数えられた母衣の歴史について簡単に解説しましょう。
この記事の目次
サムライの必須アイテム母衣とはズバリ!
サムライの必須アイテムである母衣とは、ザックリ言うと以下の5ポイントで説明できます。
1 | 母衣とは、元々薄い鎧の上に重ね着した保呂衣という戦袍 |
2 | 平安から鎌倉になると母衣は騎兵が背中に掛け
風で膨らませ矢除けに使う実用道具になる |
3 | 南北朝から戦国時代に入ると
少数の騎兵戦から歩兵が主力の集団戦に変化 母衣は実用性を失い旗幟のような識別の道具になる |
4 | 戦国後期になると本陣と各部隊を繋ぐ伝令係が
母衣を掛けるようになり、母衣衆と呼ばれるエリートになる。 織田信長の赤母衣衆や黒母衣衆が有名。 |
5 | 母衣はエリートの証になり、母衣をつけていると
戦死しても丁重に扱われた |
大体、こんな感じになります。以下では、母衣についてもう少し詳しく解説します。
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防寒具から発達した母衣
母衣は武士が誕生した時から存在した歴史の古いものです。古代の母衣は鎧の上から全身を覆う保呂衣という戦袍で、防寒や矢を防ぐ役割を持っていたと推測されます。古代の鎧は薄いので上から戦袍を着て防御力をカバーしていたようです。
それが平安時代末から鎌倉時代になると、母衣はパラシュート状に変化します。この時代の母衣は、縦に縫い合わせた絹布を首、冑、手の甲などに紐で結びつけて騎乗し、それが風をはらんで膨らむ事で背後からの矢や投石を防ぐ役割を果たしました。
前方からの矢の攻撃も、母衣を頭から被って矢を防いだとする説もあります。
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騎馬戦が主体になって母衣も変化
元々、マントのように身体を覆っていた母衣が、パラシュート状になった理由は合戦の主体が歩兵から騎兵に変化した為でした。大和朝廷は白村江の戦い以来、人民から徴兵した防人で軍団を編制していました。
しかし、大陸からの軍事的な脅威が減少した事や防人の士気が低い事、荘園の拡大で朝廷の税収が落ちた事などから、西暦792年「健児の制」を定め地方郡司の子弟から志願者を募り軍事を担わせ、防人の大半を解散します。
郡司の子弟は馬に乗り矢を射るのが標準の装備だったので、合戦自体も少数の騎兵の激突による騎射の戦いに変化し、母衣も矢を防ぐパラシュート形になったのです。
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南北朝より再び変化
平安から鎌倉時代にかけて、少数の騎馬武者同士の騎射でおこなわれていた戦いは、南北朝から戦国時代になると集団化し大規模化が進んでいきます。
足軽のような軽装歩兵が合戦に動員されるようになると、古式ゆかしい騎射の戦いは廃れ、騎兵も弓矢以外にも槍や太刀を装備して、下馬して戦う事も増えてゆきました。また、隙間が多く動きにくい大鎧も、地上戦に対応して隙間が少なく動きやすい胴丸や当世具足へと変化していき、矢に対する備えも強化されます。
こうなると弓矢を防ぐという母衣の役割も弱くなり、実質的機能ではなく見栄えを重視した母衣が流行するようになっていきました。
クジラのヒゲを利用した母衣
矢除けという実用性が薄れた母衣は、次第に旗幟のように自分の存在を内外にPRする為のアイテムへと変化していきます。こうなると風を受けて膨らませるのではなく、最初から母衣の内部にクジラのヒゲや竹などで作った骨(母衣骨、母衣籠)を入れて、最初から膨らんだ形状を取るようになり、同時に母衣のサイズも巨大化、10メートルを超える布がたなびくものまで出現しました。
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母衣衆
戦国時代後期になると、数千から万単位の兵力が動員されるようになり武士の組織化が促進されます。同時に大規模化した軍勢は、複数の部隊に分かれるようになり、本陣と各部隊の間での連絡を緊密にする必要が生じてきました。
目立つ彩色を施すようになっていた母衣は、本陣と部隊間を結ぶ伝令係としてうってつけで、次第に大名に直属する若いエリートが派手な母衣を纏い、伝令係を務めるようになり、戦場の花形「母衣衆」と称される存在になります。
最も有名なのは、永禄10年(1567年)に織田信長が馬廻衆から選抜した黒母衣衆と赤母衣衆で、人員は多くて20人内外で、その中には佐々成政や河尻秀隆、前田利家、金森長近など後に国持大名になる人々が多く含まれていました。
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母衣衆の特別扱い
上記のような理由から母衣は特別なエリートが背負うものになり、合戦においても母衣を掛けていない武士との扱いの差別化が図られました。
例えば、上泉信綱伝の「訓閲集」の巻十「実検」によると、母衣をかけた武者の首は獄門に掛けてはならず、何の供養もしないで獄門に掛けると成仏できないとされ、丁重に扱うように記されていました。
このような事情から、討死を覚悟した武士は敢えて母衣をかけて首を丁重に扱ってもらえるように配慮したそうで、母衣をつけた武士の首は必ず母衣に包んで味方に送り返す習慣も誕生します。
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日本史ライターkawausoの独り言
母衣は元々、マントやガウンのように薄い鎧をカバーしたり防寒に使う道具でした。それが平安から鎌倉になると騎馬武者が背中に掛けて、風で膨らませ矢を防ぐ道具になり、南北朝から戦国時代に入り騎馬戦が歩兵の集団戦になると矢避けの実用性が薄れ、
目立つための道具となり、戦場を往来する伝令係を識別するアイテムとして重宝されて、織田信長の赤母衣衆や黒母衣衆に繋がっていったのです。
参考:Wikipedia
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