天下分け目の合戦として歴史に名高い「関ヶ原合戦」。石田三成を中心とする西軍と、徳川家康を中心とする東軍が激突しました。
この合戦で東軍が勝ったことで、天下は徳川家のものとなり、以降250年強にわたって続く江戸時代が始まることになります。
ですが、その教科書通りの日本史の流れに、あえて「イフ」を持ち込んでみましょう。もしこの合戦で、西軍が勝っていたとしたら?しかも、本来なら江戸幕府を開くはずの徳川家康も、この合戦で戦死していたら?
その後の歴史はどう変わったのでしょう?江戸時代はこなかったのでしょうか?
この記事の目次
大きな流れは変わらなかった?徳川幕府とほぼ同政策をとったと予想される豊臣政権
西軍が勝利するということは、当然、本来の日本史の勝者である筈の徳川家が、没落するということ。
日本の権力は、石田三成が担いでいた豊臣家が引き続き握ることになります。家康亡き後の混乱の中、徳川家は取り潰しになるか、せいぜい東日本のどこか僻地に追いやられ、領地を大幅に没収された小勢力にまで落とされていたことでしょう。このようにして豊臣の長期政権が実現した場合、その後の日本史には、どのような変化があるでしょうか?
『東大教授がおしえる やばい日本史』の監修をされていた本郷和人先生は、この点について、歴史ファンにとっては何とも身も蓋もない、けれども専門家の冷静な立場からはそうなるのかもしれない、バシッとしたことを仰っています。
「徳川家でも豊臣家でも、その後の体制は変わらない」というもの!
「(豊臣政権が存続していたとして)それが徳川幕府と何が違うのかというと、武家の政権である以上、さほど変わることはなかったでしょう」「生産構造は江戸幕府と変わっていなかった。であれば、その上に築かれる社会もまた、似通っていたのではないでしょうか」(『歴史のIF』
(本郷和人/扶桑社新書)
なるほど、そうかもしれません。
ですが!
歴史ファンとしては、この結論だけでは寂しいので。「江戸時代と似通った時代がけっきょくやってきたとしても、史実通りの江戸時代とは、細かい点でどこが違いになってくるだろうか」を、考察したいと思います。
西軍が勝ったら、西日本の主勢力が入れ替わっていた!?
関ヶ原合戦で家康が戦死していた場合、その後やってくる17世紀において、史実と絶対に違ってくる点が、ひとつあります。関ケ原合戦の論功行賞の命運が逆転するわけですので、その世界では、史実では没落した勢力が主役となっているはずなのです。
西日本でいえば、以下のような家名に活躍の機会が与えられます。
・毛利家が巨大な勢力を持ったまま17世紀に入る
・小早川家、宇喜多家が17世紀以降も政界の重鎮となる
・長曾我部家が四国の雄として生き続ける(=山内家が四国に入ってこない)
・島津家は九州の雄として巨大になる
この他もうひとつ、面白い可能性を秘めているのが、かの黒田官兵衛の、黒田家。史実では東軍に属しつつも、九州各地の諸城を攻撃して勢力を拡大しておき、どこか徳川家にたてつくような怪しい動きを見せました。西軍が勝った場合、この策謀家がおとなしく元の所領に引っ込むのか、それとも、家康よりは御しやすいだろう毛利輝元や石田三成を相手に何か一暴れしていたか?
黒田官兵衛ファンなら、いろいろ想像が膨らむところではないでしょうか?
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西軍が勝ったら、東日本の主勢力も微妙に入れ替わっていた!?
主役が入れ替わるのは西日本だけではありません。東日本にも激震が起こるでしょう。まず、会津の上杉景勝が東日本の決定的な雄藩となることは必定。状況によっては、かつての拠点、越後に返り咲きもあったかもしれません!
さらに、徳川家が居座っていた関東地方一帯が、家康の没落によってまるまる西軍派によって分割されるわけですから、この所領を西軍側の誰が継承するかが見ものとなります!
家康亡き後の、江戸から小田原にかけての所領を誰に与えるか?
これはいろいろなパターンが可能性としてあり得ましたが(たとえば石田三成と大谷刑部がここに入ってくる等!)それによって17世紀以降の日本史の主役は、大きく入れ替わることでしょう。そして、東日本側にも、面白い動きをしそうな存在がいます。東軍に属しながらも、やはり黒田官兵衛のように、どこか家康にたてつくような怪しい動きをしていた伊達政宗。
このシナリオでは、家康よりもおそらく御しやすい毛利輝元や石田三成を相手に、何か一暴れをしたのではないでしょうか?
これも、伊達政宗ファンなら、いろいろ想像が膨らむところでしょう!
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最大の違いは日本の中心が大阪になっていたこと!
その他、豊臣政権が長期化することで、何か史実と大きな違いが生まれる点はないでしょうか。
ひとつあります。徳川幕府が開府されなかった場合、江戸が日本政治の中心になることはなかっただろう、という点です。この場合、大阪が政治の中心となり、そのまま近世~近代に突入していた可能性が高まります。
となると、東京が首都となっている現在の日本地図とは大きな違いが出てきます。おそらく現代でも大阪と京都が日本の中心。東京はあくまで東日本側の商業の中心として成長し、仙台や新潟といった東日本の大都市との関係も、史実とは変わってきていたことでしょう。
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まとめ:西日本大名ひいきの歴史ファンには胸躍る展開だった?
このように、できあがる政治体制は江戸幕府と似たものになっていたとしても、重鎮として活躍する大名家の名前は、毛利・上杉・島津といった面々となっていた世界が想像できます。
さらに長曾我部や宇喜多、小早川といった、史実では関ヶ原をもって消滅する名前まで含めれば、そういった西日本側の戦国大名ファンにとっては何とも楽しいイフ世界になりそうです。このシナリオではそうした各大名家の子孫たちが、大阪を中心にどのような日本を作ったか、いろいろ胸躍る想像が膨らむのではないでしょうか。
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