徳川家(戦国)

伊賀越えとは何?徳川家康生涯最悪の3日間

 

西暦1582年6月2日は、日本史上の大事件本能寺(ほんのうじ)の変が起きた日です。ここから半月の間に天下は織田信長(おだのぶなが)から明智光秀(あけちみつひで)、さらに羽柴秀吉(はしばひでよし)へと二転三転しました。

ieyasu-tokunaga-lose(敗北する徳川家康)

 

しかし、忘れられがちですが本能寺の変で酷い目にあったのは信長だけではなく、あの天下人徳川家康(とくがわいえやす)もそうなのです。今回は、家康が九死に一生を得た神君伊賀越(しんくんいがご)えについて解説します。

 

6月2日家康は大坂にいた

 

しかし徳川家康は東海地方の大名なのに、どうして本能寺に近い堺などに滞在していたのでしょうか?それは、徳川家康が織田信長へ御礼の為に上洛していたからでした。

 

天正10年は織田家にとって、天正5年の長篠の戦勝から5年も続いた武田勝頼攻めが終わり武田家を滅ぼしたメモリアルイヤーで、その時、信長の手足として働いてくれたのが盟友徳川家康だったのです。

tokugawa-oda(織田信長と徳川家康)

 

織田信長は家康の労に報いるべく、駿河(するが)遠江(とおとうみ)の二国を家康に与えたので家康の方でも信長への御礼も兼ねて安土に上り、信長も威信に掛けて家康を接待攻めにします。安土での接待(せったい)を終えた家康は上洛し、しばらく滞在、さらに堺に向かい豪商から茶会に招かれるなど人脈作りをし、6月2日には堺を出て再度京都に戻る所でした。そして、現在の大阪府枚方(ひらかた)で、信長横死の知らせを受けたのです。

 

家康自刃しようとして本多忠勝に止められる

 

信長が明智光秀に討たれたという知らせを持ってきたのは京都の豪商茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)でした。この第一報を聞いた家康、すぐに逃げようとするかと思いきや京都に突入し浄土宗総本山の知恩院で信長に殉死すると言い出します。

 

家康諦めが良すぎ!

 

しかし、家康が諦めるのも無理からぬ理由がありました。第一には家康が従えている供の少なさで、徳川四天王と石川数正(いしかわかずまさ)、伊賀の服部半蔵(はっとりはんぞう)等がいるとはいえ、足軽などはなく総数34名しかいません。これでは明智軍に遭遇するどころか、土民の落ち武者狩りでも数百人はいますから勝ち目はありません。

mituhide-aketi-honouji(明智光秀の本能寺の変)

 

第二には、近畿管領(きんきかんれい)として畿内を抑えている明智光秀の包囲網から逃げられる筈はないという諦めでした。安土で家康を接待したのは光秀であり、家康の旅行日程は全て把握されているのです。信長でさえ本能寺を襲撃したのが光秀と知った時に「是非に及ばず」と逃げる事を諦めたのですから、家康の絶望の程が知れます。

nobunaga-oda-Honnoji(本能寺の変の織田信長)

 

土民の手にかかり無様な死にざまを晒すくらいなら、信長に忠義を尽くした武人として名誉の最期を遂げたいと思ったのでしょう。しかし、家康の弱気に徳川四天王の本多忠勝(ほんだただかつ)が猛反対します。

 

「信長公の恩義に報いるなら生きて還って光秀を討つ以上はない」と(いさ)めたのです。

これに一同も納得し、家康も決死の覚悟で三河まで帰る決意をしました。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる

 

どうして伊賀越えと呼ばれるのか?

 

神君伊賀越えとして知られる家康の逃走劇ですが、実際の家康は堺から山城国に入り、近江国の甲賀から伊賀に入り伊勢国から三河までの3日間の工程であり、伊賀はその中の25キロ程度に過ぎません。それなのにどうして「伊賀越え」と呼ばれるのでしょうか?

Ikko-Ikko( 一向一揆)

 

実は当時の伊賀は惣村の自治組織が高度に発達した総国一揆の状態でした。織田信長は、伊賀の総国一揆を天正9年の天正伊賀の乱で徹底的に殲滅していましたが、本能寺の変で信長が横死した事で一揆が再燃していたのです。

軍議

 

実際に伊勢を支配していた信長の次男、織田信雄(おだのぶかつ)は本能寺の変を知り2500の手勢で近江国甲賀郡土山まで進軍したものの、伊賀で不穏な動きありとして退却しています。

 

そんな伊賀の一揆勢から見れば信長の盟友の家康は仇も同然であり、「はいどーぞ」と通すわけがありません。必然的に伊賀越えは最大の難所になり、家康逃避行のハイライトになったのです。

 

家康をアシストした人々

軍旗

 

それでも家康は部下と運に恵まれていました。まず、供で連れて来た徳川四天王は奮戦し、三河の大浜に辿り着いた時までに200名の雑兵を討ち取ったと松平家忠(まつだいらいえただ)の家忠日記にあります。伊賀出身の服部半蔵は、地元の配下を動員して土民に家康を襲わないように圧力を掛けていたそうですし、豪商茶屋四郎次郎も商人のネットワークで家康が無事に逃げられるように手配したそうです。

 

また信長が案内役につけた長谷川秀一(はせがわひでかず)は、家康の脱出経路決定や大和国、近江国国衆への取次をし安全圏の尾張熱田まで家康一行に付き合い、堺で偶然居合わせた佐久間安政(さくまやすまさ)は土地勘があり、家康に加勢して逃走を助けました。

 

さらに伊勢商人の角屋七郎次郎秀持は伊勢から三河大浜までの船を手配し、感謝した家康から以後廻船自由(かいせんじゆう)の免許を得て海外とも手広く交易し富を築いています。このように家康は、窮地に多くの人々の助けを得る事が出来、無事に三河に帰る事が出来たのです。

 

命運を分けた穴山信君

落ち武者

 

一方で途中まで家康と同伴していた穴山信君(あなやまのぶきみ)は、大金を保持していたので途中から家康と離れて別行動を取り、ついに執拗(しつよう)な落ち武者狩りから逃れられずに自刃したとも、首を落とされたとも伝えられています。一説では信君は家康に異心があると疑い別行動を取って少し遅れて移動したとも言われ、落ち武者狩りに家康と誤認されて殺害されたとも伝わります。いずれにせよ、家康の伊賀越えには余裕などなく、一歩間違えば穴山信君と同じ運命になっていた極めて危ない綱渡りだったのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso

 

生還した家康は三河で軍勢を整え信長の弔い合戦に向かおうとしますが、明智光秀は山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れて戦死し、天下は信長から秀吉に移っていました。しかし、伊賀越えで重臣を失う事が無かった事は家康の運命にプラスに作用し、後の天下獲りの貴重な財産になったのです。

 

文:kawauso

参考文献:現代語訳 信長公記

 

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【戦国風雲児の意外な素顔】
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