美濃三人衆とは西濃三人衆とも呼ばれ、西美濃に勢力を築いて土岐氏・斎藤氏に仕えた国衆の代表者で、稲葉良通、安藤守就、氏家直元の3名を指します。
生前にこの3人が美濃三人衆と呼ばれた事実はなく、三好三人衆などから着想を得た後世の呼称と考えられますが、今回は織田信長に美濃を取らせた美濃三人衆に迫ってみましょう。
美濃三人衆を紹介
では、最初に美濃三人衆を簡単に紹介します。
稲葉良通(一鉄) | 永正12年(1515年)美濃の国人稲葉通則の六男として美濃池田郡本郷城に誕生。幼少時に崇福寺に預けられ僧となるが、に父と5人の兄達全員が牧田の戦いで浅井亮政と戦って戦死したので還俗し曽根城に入る。最初は土岐頼芸に仕え、その後斎藤道三に鞍替えし義龍、龍興と斎藤氏3代に仕えた。 |
氏家直元(卜全) | 永正9年(1512年)美濃牧田城主氏家行隆の子として誕生。
当初は土岐頼芸の家臣として仕え、斎藤道三に頼芸が追放されると道三に仕え、以後、義龍、龍興と3代に仕えた。 一時は美濃の1/3を支配し三人衆最強の勢力を誇った。 |
安藤守就(道足) | 文亀3年(1503年)美濃北方城主、安藤守利(定重)の子として誕生。はじめ土岐頼芸に仕え斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕え、以後、義龍、龍興と3代に仕えた。 |
このように見ると、安藤守就が10歳あまり年上なだけで、美濃三人衆は年齢も近く、所領も隣り合っていて互いに協力しあっていたようです。確かに最初は土岐頼芸、次に斎藤道三、義龍、龍興と主君を変えるのも同じです。
関連記事:【麒麟がくる】斎藤四代美濃のマムシの系譜を簡単紹介
関連記事:【麒麟がくる】織田信長はやっぱり暴君?粛清された16人を紹介
信長と戦う稲葉良通
美濃三人衆は道三、義龍、龍興と仕えてきましたが、龍興は14歳と若年で家督を継いだ事もあり、森可成、坂井政尚、堀秀重、斎藤利治、明智光秀などの人材が尾張にヘッドハンティングされていきます。
合戦でも、森部の戦いで織田信長軍を撃退しますが、森部の戦いでは多くの重臣を戦死させてしまいました。美濃三人衆の中で稲葉良通は、この重要な森部の戦い、そして痛み分けとなった軽海の戦いに従軍し信長を退けています。
関連記事:斎藤義龍は道三の実の息子!道三を討った本当の理由は?
関連記事:斉藤道三(利政)の逸話やエピソードからマムシの真の姿に迫る!
婿の竹中半兵衛と稲葉山城を奪う安藤守就
永禄6年(1563年)織田信長は再び美濃にちょっかいを出してきます。新加納の戦いと呼ばれた戦いは、織田軍が5700で斎藤軍3500を上回りましたが、ここでは竹中半兵衛の伏兵策が効果を挙げ、信長は撤退しました。
本来ならば龍興は半兵衛に褒美を取らせてもいい所ですが、龍興は重臣で評判の悪い斎藤飛騨守を信じ切っていて、飛騨守と仲が悪い半兵衛を相変わらずバカにします。
竹中半兵衛もこれには堪忍袋の尾が切れてしまい舅にあたる安藤守就と共に挙兵して、斎藤飛騨守を殺害すると稲葉山城を攻め落とし龍興は城を捨てて逃げていきました。
後に和解して稲葉山城を龍興に返した半兵衛ですがこの事件は斎藤氏の勢力衰退を内外に知らしめてしまいます。それにしても半兵衛もスゴイですが、婿の恨みを晴らすために共に挙兵する守就は、ナイスダディですね。
関連記事:天才軍師 竹中半兵衛が編み出した鬼畜の作戦って何?
遂に龍興を見限る美濃三人衆
織田信長は小牧山に城を築いて東美濃に圧力をかけ、東美濃の国衆は次々と織田家に内応し、永禄8年には中濃地方も攻略し、龍興の支配領域はどんどん小さくなっていきました。
永禄10年(1567年)稲葉良通、氏家直元、安藤守就の3人は織田信長に内応して人質を派遣、これを受けて織田軍は稲葉山城を襲撃し、孤立無援になった斎藤龍興は船で長良川を下って伊勢長島に脱出。美濃は全て織田家の領地となります。
美濃三人衆は、斎藤龍興が奸臣、斎藤飛騨守を重用した事を不服として叛いたとされますが、実際には龍興の力では美濃を統治できず、自分達の領地を守れないと考えた上で信長に鞍替えしたのが真実に近いと思います。
関連記事:なんで武士は征夷大将軍になりたがる?沢山ある将軍号から選ばれた理由は?
関連記事:大名はどうやって歴史に登場したの?平安時代から戦国まで徹底解説
その後の三人衆
斎藤龍興を見限り織田信長に鞍替えした美濃三人衆は、その後どうなったのでしょうか?
こちらも表で見ていきましょう。
稲葉良通(一鉄) | 織田信長の上洛に参加。長島一向一揆征伐、長篠の戦い等、織田軍の主要な合戦に従軍し武功を挙げ、天正8年同じ美濃三人衆の安藤守就が信長の勘気を被り追放されると安藤氏の領地を与えられ西美濃最大の勢力となる。本能寺の変後、旧領を取り戻しに来た安藤一族を迎え撃ち守就を敗死させた。その後、秀吉に仕え天正16年(1588年)74歳で大往生を迎える。 |
氏家直元(卜全) | 織田信長の上洛に従い、北畠具教攻めや姉川の戦いに参加する。
元亀年(1571年)伊勢国長島攻めで柴田勝家に従い従軍するが敗北 殿を務めるが、六角一族の佐々木祐成に討ち取られた。享年59 |
安藤守就(道足) | 織田信長の上洛に参加、伊勢長島攻めでは氏家直元と従軍し負傷する。
その後も柴田勝家、羽柴秀吉の与力として各地を転戦するが、天正8年に信長の勘気を被り追放され領地は稲葉良通に奪われる形となる。 本能寺の変が起きると領地を奪い返そうと子の安藤定治と共に挙兵し北方城の奪還を図るが稲葉良通に破れて自刃した。 |
このように美濃三人衆は天寿を全うしたのは稲葉良通だけであり、しかも同じ三人衆同士で城を争うという仁義なき戦いを繰り広げている事が分かります。
関連記事:武田信玄存命なら長篠の敗戦は無かった?その地味で重要な理由とは?
関連記事:延暦寺、戦国大名も恐れた武闘派ボーズ組織を徹底解説
日本史ライターkawausoの独り言
織田信長に仕えた後は、明暗が分かれた美濃三人衆ですが、氏家直元のように負け戦で殿を務めて討死したり、本能寺の変後に奪われた城を同僚から奪い返そうとしたり、逆に返り討ちに遭わせたり、どちらも非常に独立心が旺盛なのが共通点です。
彼らは寄らば大樹の陰ではなく、最後の最後まで独立心を失わない戦国武将として家の存続と発展の為に戦い抜いたのです。
関連記事:信長の親衛隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」とは何?どんな人物が選抜されていたの?
関連記事:織田信長が神を名乗った理由は寄付目的?