ウィリアム・アダムスはイングランドの航海士です。元々は船大工の棟梁に弟子入りしていましたが、やがて航海に興味を持ちイングランド海軍に入り、アルマダの海戦に参加後、軍を離れてバーバリー貿易会社の航海士、船長となりました。その後、ウィリアム・アダムスは数奇な運命で日本に渡る事になり、やがて家康の知遇を得て家康に海外情勢を教える事になります。
この記事の目次
船大工から航海士に転身したウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムスはイングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれです。父は船員でしたが早くに亡くなり、12歳になったウィリアムはロンドンに渡りテムズ川北岸にあるライムハウスに入り船大工となる訓練を受けます。しかし、大工の見習いをしながら航海の話を聞いている間に、ウィリアムは航海士になろうと決意し1588年に年季奉公が終わるとイングランド海軍に入隊しフランシス・ドレイクの指揮下にあった貨物補給船、リチャード・ダフィルード号の船長としてアルマダの海戦に参加しました。
戦争が終わるとウィリアムは、1589年にメアリー・ハインと結婚し娘と息子に恵まれます。しかし、ウィリアムは軍を離れてバーバリ貿易会社に入り、船長や航海士として北方航路やアフリカ航海を繰り返していて、ほとんど家にいなかったようです。
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オランダの極東冒険航海の乗組員へ志願
ウィリアムは航海の仕事でオランダ船員と交流を深める事になり、オランダ政府が極東を目指す航海のため腕のよい航海士を探していると言う噂を聞きつけます。未知の極東へのロマンに駆られたウィリアムは弟のトマスと共にロッテルダムに渡り志願します。冒険航海は五隻の船でおこなわれ、司令官のジャック・マフはウィリアムをホープ号の航海士として採用しました。こうして独立したばかりのオランダの国運を背負い冒険艦隊はロッテルダム港を出港したのです。
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多くの困難に見舞われ日本へ漂着する
しかし冒険航海は苦難の連続で、船はポルトガルやスペインの船に拿捕され、船団からはぐれた一隻はロッテルダムに引き返しました。残ったのは旗艦のリーフデ号とホープ号でしたがホープ号は太平洋を横断する最中に沈没。一隻だけ残ったリーフデ号も、赤痢や壊血病、インディオの襲撃にさらされるなどして船員が激減。110名の乗組員のうち生きて豊後国臼杵の黒島に漂着したのは24人だけでした。
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関ケ原直前、大坂城へ護送される
関ケ原の戦いの半年前である1600年4月29日、臼杵城主太田一吉は小舟を出して自力で上陸できなかったリーフデ号の乗組員を救助。その後、長崎奉行の寺沢広高に通報します。寺沢はリーフデ号の乗組員を拘束し、船内に積み込まれていた大砲や火縄銃、弾薬を没収した後で大坂の豊臣秀頼に指示を仰ぎます。
この時、ウィリアムは航海士に過ぎませんでしたが、船長のヤコブ・クワッケルナックは重体で身動きがとれませんでした。そこで比較的元気なウィリアム・アダムスや、ヤン・ヨーステン、メルキオール・ファン・サントフォールト等を大坂に護送させ、船も回航させました。
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家康に弁舌を気に入られ江戸に移る
1600年5月12日家康はウィリアム等リーフデ号の船員と初めて謁見します。これ以前、家康はカトリックであるイエズス会士の告げ口でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいましたが、航海の目的や苦難の旅路、オランダやイングランド等のプロテスタント国とポルトガル・スペイン等のカトリック国との紛争を説明するウィリアムとヤンを気に入って誤解を解き、何度かの引見を繰り返した後で江戸に乗組員を移す事になります。
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帰国を願うも家康の外交顧問として残留
江戸に来たウィリアムは帰国を願い出ますが家康が許さず叶いませんでした。家康は米や俸給を与えてウィリアムを慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めるなど重宝します。またこの時期にウィリアムは、幾何学や数学、航海術などの知識を家康と家康の側近に授けたとされます。その後のウィリアムは家康の命令で日本で初めての造船ドックを建築し洋式帆船を建造。家康は気を良くしてウィリアムを250石取りの旗本に取り立て、相模国逸見に領地を与え、三浦按針の名前を与えました。
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家康死後、活躍の場を失い憂悶の内に死去
本国に帰りたいという思いを持ちながら家康に重宝される数奇な運命を辿るウィリアムは、イングランドと日本の朱印船貿易をアシストするなど外交面で活躍します。しかし、海外貿易に熱心だった家康が死に、2代将軍秀忠の時代になると幕府は制限貿易に舵を切り、長崎と平戸以外の港から外国船を締め出しました。ウィリアムは自由貿易こそ幕府の利益になると何度も主張しますが、警戒され次第に活躍の場を失いました。そして、1620年5月16日に家康に遅れる事4年で平戸で死去しています。
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日本史ライターkawausoの独り言
ウィリアム・アダムスの国際貿易構想は徳川家康に世界規模の視座を与えたのかも知れません。ドラマでは家康の正室の瀬名が共通の通貨を利用してお互いに足りない物資を補い、戦争が無い世界を造る事を理想としていましたので、ウィリアムのような世界を股にかける航海士の話は家康の心を捉え、家康は海外貿易に瀬名の理想とした戦の無い世界の夢を託すのでしょうか?
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