本能寺の変後、明智光秀を討った羽柴秀吉が信長の後継者になった事はよく知られています。
しかし本能寺の変が起きた後には柴田勝家も仇討ちに動いていました。では、どうして勝家は秀吉に出遅れてしまったのでしょうか?
距離では秀吉が86キロほど有利
では、最初に本能寺からの両者の距離を考えてみましょう。柴田勝家は越中国の魚津城と松倉城を包囲していて、ここから京都、本能寺までは305キロあります。一方、備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉の拠点からは本能寺は219キロで、距離においては秀吉が86キロ短く、当時の人間の移動速度から考えると2日分のアドバンテージがありました。
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本能寺の変を知った速さ
もっとも距離だけでは勝敗の決め手にはなりません。今のようにネットがない昔は、いかに情報を速く入手するかが重要でした。秀吉が本能寺の変の事実を知ったのは、変から1日が経過した6月3日夜中で明智光秀が毛利方に織田信長の死を知らせる使者からだったようです。
光秀は毛利に信長の死を伝える事で羽柴秀吉の軍勢に逆襲をかけさせるつもりでした。事態を知った秀吉は使者を口封じし、同時に周囲の見張りを増やして怪しいヤツは全て捕らえるよう命じ、急いで毛利方の安国寺恵瓊と講和をまとめると6月4日午後には撤退を開始します。
一方の柴田勝家が本能寺の変を知ったのは、遅くとも6月6日であるようで、この日の夜に退却に転じています。秀吉よりも2日も遅いのですが勝家が緘口令を敷いた様子はなく本能寺の変は勝家のみならず織田方の将兵にあまねく知れ渡ったと推測できます。速度もさることながら情報を秘匿した秀吉と秘匿できなかった勝家では致命的な差が生じました。
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崩壊する北陸方面軍
退却を開始した羽柴軍に対し、毛利側が本能寺の変を知るのは翌5日の事で紀州の雑賀衆からの情報によるとされます。秀吉に一杯食わされたと毛利軍は憤り、吉川元春は秀吉を追撃しようと主張しますが、小早川隆景は一度盟約を結んだものを血判も乾かないうちに破っては武士の名が廃ると反対して抑えたそうです。
さて、ここで毛利方が本能寺の変を知ったのが6月5日である事に留意する必要があります。本能寺の変の情報は、3日で219キロ離れた備中高松城まで届くのです。これを考えると6月6日にようやく退却を開始した柴田勝家の情報の入手がいかに遅いかが分かります。しかも情報が秘匿できなかった北陸方面軍では信長の死によって続々と離脱する人間が出てきていました。これは情報を秘匿して直属の2万の軍勢を崩壊させる事無く、京都まで帰還できた秀吉と比較すると雲泥の差と呼ぶしかない失策でしょう。
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邪魔された勝家、されない秀吉
北ノ庄城に退却した柴田勝家は、当初意気軒昂で6月10日前後には大坂にいた丹羽長秀と光秀を討つ計画を書状で出しています。しかし、勝家が近江に向かうのは6月18日と書状を出してから8日も経過してからでした。理由は、本能寺の変を知った越後の上杉勢が失地回復をはかるために、越中と能登の国人衆に信長が死んだ事を吹聴してまわった事でした。
すでに関東の滝川一益や信濃の森長可も国人衆の反乱で窮地に陥っていて、勝家も本拠地の北ノ庄城を留守にするわけにはいかなくなったのです。一方で秀吉は6月4日に備中高松城を出発し本拠地の姫路城に戻ったのは6月7日だと考えられています。この間に将兵の脱落や崩壊は起きず、秀吉は姫路城で充分に休息し、全軍をもって6月13日の山崎の戦いに望む事になります。
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日本史ライターkawausoの独り言
こうしてみると秀吉の強運もさることながら、万が一の事態に対処する情報管理意識の高さが浮き彫りになります。秀吉は次第に独裁傾向を強め、またよく重臣に裏切られる信長の様子を見ていて、万が一の事態は近いと考え、そのために出来る手は全て打っていたように思えます。逆に勝家は、そこまで危機意識を持っていなかったので、本能寺の変に対し有効な措置が取れないまま、秀吉に敗北したと言う事かも知れません。
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