織田信雄は織田信長の次男であり、本能寺の変の直前には伊勢の北畠氏の家督を継いで北畠信意と名乗っていました。しかし、本能寺の変で父の信長、兄で家督を継いでいた信忠が同時に亡くなり、にわかに織田家の後継者争いに名前が登場します。ドラマや映画では父に及ばない臆病者として描かれる信雄ですが、実際にはどうだったのでしょうか?
この記事の目次
残酷さと勇猛さでは父に劣らない
織田信雄は1558年に尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷で信長の次男として誕生します。1569年信長は伊勢の北畠氏に攻撃を仕掛け、劣勢の北畠具房は和睦を提案。信長は信雄を北畠家の養子とする事を条件に和睦に応じ信雄は北畠具豊と名乗りました。その後、信雄は長島一向一揆との戦いに身を投じ1575年に北畠家の家督を相続。越前一向一揆討伐に参戦し、塙直政、滝川一益。神戸信孝のような織田家の重臣と共に戦います。
家督を相続した信雄は1576年に北畠具教と北畠家臣14人を殺害。その後も謀略で北畠一族を次々に粛清し、南伊勢五郡の勢力を乗っ取ってきました。こうしてみると信雄は無能ではなく、残酷さと勇猛さでは信長に劣らないと言えそうです。
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でも、やはりうっかりさん
その後は、大坂本願寺征伐に従軍するなどキャリアを積み重ねる信雄ですが、1579年、信長に無断で9500人の兵を率いて伊賀惣国一揆に戦いを挑みますが伊賀十二人衆の前に大敗。殿を務めた重臣の柘植保重は討ち取られてしまいました。
信長は無断で軍を動かし、しかも大敗した信雄に激怒し「親子の縁を切る」とまで叱責されます。しかし後に許され、1581年信長は大和、近江、伊勢の軍勢を動員して再度伊賀攻めを開始。これに信雄も従軍しました。伊賀惣国一揆は壊滅し信雄は伊賀三郡を領有します。このように信雄には思慮が浅い所があり、この思慮の浅さに家康も振り回される事になります。
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本能寺の変後チャンスを逃す
本能寺の変直後、信雄は近江まで進軍しますが、それ以上は進まずに撤退しました。結局、明智光秀討伐の手柄は中国大返しを決行した羽柴秀吉がかっさらいます。また、羽柴軍には申し訳程度ながら信雄の弟である織田信孝も参加していました。
清須会議において、織田信雄は弟の織田信孝と信長の嫡孫で織田家の家督を継ぐ事が決定していた三法師の後見人に誰がなるかで揉めますが、結局は秀吉の根回しと光秀討伐の功績が影響し、三法師の後見人は信孝と決定。信雄は尾張、伊賀、南伊勢など100万石の大名になりました。
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清須会議の崩壊と秀吉への接近
しかし、三法師の後見人になった信孝は、信長の後継者として振る舞う秀吉を嫌い、織田家宿老の柴田勝家に接近。秀吉は対抗すべく清須会議を反故にし丹羽長秀や池田恒興と共に三法師を織田家当主から解任し改めて信雄を当主に担ぎました。1583年の賤ヶ岳の戦いでは信雄は秀吉に味方して柴田勝家や神戸信孝と戦い勝利します。
改めて三法師の後見人となって安土城に入った信雄ですが、柴田勝家を消した秀吉の権勢は留まるところを知らず、信雄とはすぐに意見対立が生じて交渉決裂。信雄は安土城を追い出され、本拠地の伊勢長島城に戻ると徳川家康に接近しました。
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家康に無断で秀吉と講和
家康は秀吉の風下に立つ事を拒否していたので、織田家の正当な後継者となった信雄の参入は秀吉相手に戦争を起こす上での大義名分として願ってもない事でした。こうして信雄を旗頭に家康は小牧・長久手の戦いを続けていきますが、秀吉は狡猾で家康ではなく、信雄の領土を執拗に攻略すると共に、豊富な資金源を背景に信雄家臣の切り崩しを続けました。自分の領地が切り取られ、重臣が次々に謀反する事に耐えられなくなった信雄は、家康に断わりもなく単独で秀吉と講和を結んだのです。
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いきなり逆賊にされた家康
驚いたのは家康です。錦の御旗が勝手に秀吉の所に去り、正義の官軍のはずが一夜にして反逆者になってしまったからです。しかも、そんな信雄、無神経にも秀吉の使者として家康の下にやってきて、「もうじたばたしても秀吉の天下は覆らないから上洛して家臣になったら?」と、おまえが言うのかという信じられない態度を取ります。
本当はこれ以上、戦争はゴメンの家康ですが、ここで秀吉に降伏すれば徳川がどうなるか分かったものではなく、圧倒的な大軍を率いる秀吉に対し絶望的な防戦の決意をしました。
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天正大地震に救われる
絶体絶命の家康を救ったのが1586年の天正大地震でした。この地震は特に関西で被害が大きく、秀吉は家康を攻める力を失います。そして逆に家康に譲歩する形で妹の旭姫を家康の正室とし、母親の大政所を家康の人質に出す条件を提示。家康はついに上洛します。
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その後もちゃらんぽらんに生き抜く信雄
その後、信雄は豊臣大名として小田原征伐にも参加し手柄を立てますが、領地替えで尾張を離れる事に不服を言ったせいで秀吉の怒りを買い改易され出家します。その後、文禄の役の頃に家康の口利きで赦され、秀吉の御伽衆となりますが、関ケ原の戦いでは西軍についてまたしても改易。その後は豊臣秀頼が信雄を召し抱え大坂城下で生活していました。
大坂の陣では、徳川方に豊臣謀反の情報をもたらし信雄も大坂城を退去。1615年には大和国、上野国などに5万石を与えられ徳川の大名として返り咲きました。そして1630年天下泰平の徳川の世を見届け73歳で大往生しています。
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日本史ライターkawausoの独り言
織田信雄は軽はずみで考えが浅く、それで失敗している点も多いですが、なんだかんだで戦場では手柄を立て名だたる合戦には名前を残しているので愚将とまでは言えないでしょう。しかし、行動が自分勝手で周辺を振り回すので、あまり友達には欲しくないタイプですね。
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