武田信玄より甲州軍団を継承した武田勝頼。しかしいかに天才勝頼でも家督を継いだ当初は信玄以来の重臣を思うようにコントロールできず長篠城を家康に奪われ、織田信長にも武田オワタwwと馬鹿にされるレベルでした。ところが長篠城を奪われる屈辱を経験した事で勝頼は逆に覚醒。瞬く間に勢いを盛り返し家康の強敵として返り咲いたのです。
信玄死後連敗が続く勝頼
信玄の死後、武田家の家督を継ぐ勝頼ですが、信玄の死を3年間秘密にする事は出来ず、徳川家康の反攻が開始されました。天正元年(1573年)5月、信玄が死去してから1ヶ月も経過しない間に家康は駿府を攻撃しさらに遠江の井伊谷に攻め込みます。この時、武田軍の動きがあまりに鈍い事から家康は信玄の死を確信したようです。
家康はチャンスを逃さず、元亀2年(1571年)7月、信玄の三河侵攻で奪われた長篠城奪還に動きました。これに対し武田勝頼は山県昌景や穴山信君などを援軍に送りますが9月には、長篠城主菅沼正貞が城を明け渡します。家康は武田が長篠城を奪還する事を想定し、城主を娘婿の奥平信昌に変更し500の兵で厳重に守りました。
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長篠城を奪われ勝頼が覚醒する
信玄の時代に比較すると信じられない堕落ぶりに誰よりも愕然とし苦悩したのが武田勝頼でした。しかし著しくプライドを傷つけられた事で勝頼も吹っ切れます。結局、親父を追っても仕方がない、俺は俺のやり方でやると決意したのです。
天正2年(1574年)になると勝頼は美濃へ侵攻して明智城を攻略、5月には勝頼自身が遠江に進撃します。狙いは父信玄も落城できなかった堅牢な高天神城でした。勝頼は20000の大軍で城に猛攻を掛け、結果二ノ丸が落城しました。
城主である小笠原氏助は織田と徳川の援軍を期待していましたが、当時家康には割ける兵士が8000しかなくやむなく信長に援軍を求めます。ところが信長は各地で蜂起した一向一揆の対処のため割ける兵力がありませんでした。絶望した小笠原氏助はついに降伏を決意し高天神城は開城します。信玄でも陥落させられなかった難攻不落の高天神城を落城させたことで勝頼の武勇は天下に轟いたのです。
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織田信長が勝頼を見直す
高天神城の陥落を聴いた信長は援軍に向かう事を止めて吉田城に引き返します。そして、武田オワタwwの評価を一変させ、上杉謙信に対し四郎勝頼は信玄の兵法を受け継いで、兵法の表と裏を心得た油断ならない強敵であると書状に記したのです。
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運命の長篠の戦いが始まる
武田勝頼が次に狙うのは、自分のプライドが粉々に砕かれた、あの長篠城でした。家康に成す術なく奪われた長篠城を奪い返す事で勝頼は威信を取り戻し、信玄に匹敵する戦国の名将になれるという事です。
勝頼は15000の大軍で、家康の娘婿、奥平信昌が守る500名の長篠城を包囲します。しかし、その頃には織田軍と一向一揆との戦いも一段落し、本腰を入れた信長は30000もの兵力を集めて岡崎城に入っていました。こうして、徳川と織田の連合軍38000は長篠に向かって進軍し、武田家の運命を暗転させた長篠の戦いが幕を明けたのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
長篠の戦いにおける勝頼による鉄砲隊への騎兵と足軽の突撃は時代錯誤として批判されますが、当時の常識では鉄砲隊に対して槍を構えた足軽と騎兵を突入させる事は普通であり、なんら非難される戦術ではなかったようです。
ただ、この時武田軍は左翼と右翼が精強である一方で親類や一門が陣取る中央が弱く、勝頼の命令を無視して敗走。それにより右翼と左翼が孤立して鉄砲の集中攻撃を受けて大敗したという説もあります。これが事実なら勝頼は戦術眼も戦略眼も悪くないものの、部下の信頼を勝ち得る事には失敗していたという事かも知れません。
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