平安や鎌倉時代まで、戦場の主力は大鎧で武装して騎乗しお互いに矢を放ちあう騎馬武者でした。しかし、南北朝以後、合戦が歩兵を主体とした集団戦に変化すると騎兵の意味合いも大きく変化します。
それは武田騎馬軍団として知られる武田家でも同じでした。
今回は武田騎馬隊が竜騎兵と化していたというタイトルで、騎馬隊の役割の変化を解説します。
この記事の目次
武田騎馬隊は竜騎兵と化していた?ザックリ!
では、最初に忙しい読者の皆さんの為に、この記事の内容をザックリ説明します。
1 | 歩兵の武器が長刀の時代、騎兵は歩兵に対し優位だった。 |
2 | 刺突兵器である槍が南北朝期に登場すると、 2人の槍兵がいれば騎兵1人を仕留めるのは難しくなく、 騎兵の歩兵への優位が崩れた |
3 | 甲陽軍鑑では原虎胤が自分を尾行してきた敵騎兵4人を 下馬して槍で突き殺している |
4 | 山本勘助は騎兵を体当たりではなく、 戦場までの移動手段として使う事を信玄に提案 これは西洋の騎馬で目的地に移動する 銃歩兵(竜騎兵)に似ていた。 |
5 | 武田軍は多くが徒歩で槍を武器に一番槍を目指して 敵陣に錐状に突撃する戦法に変わった |
6 | 三方ヶ原の戦いで信玄は騎兵ではなく 魚鱗陣で織田・徳川連合軍の鶴翼陣を突き崩し勝利した。 |
以上で、ザックリ解説は終了です。ここからはもう少し詳しく解説していきます。
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騎兵が廃れた理由は槍の誕生
日本において騎兵の歩兵に対する優位が覆った背景には槍の誕生がありました。槍が誕生する以前の歩兵の装備は長刀で、これでは馬を薙いで倒すという事が不可能だったのです。
槍が登場する以前の騎兵は歩兵に対して優位で、馬体を歩兵にぶつけてつきとばしたり、同じ騎兵でも疲労が濃いとみれば突撃して馬ごとひっくり返し落馬した所でトドメを刺していました。
このような描写は平家物語によく見られます。
しかし、時代が騎馬の時代から歩兵の集団戦術に移行し、戦国時代に槍が開発されると槍持ちの歩兵が2名いれば騎馬武者を討ち取る事が可能になります。刺突兵器である槍は、出来るだけ水平に構えて石突を地面に突き立てる事で、力を入れずとも突進する馬を体重で串刺しにする事が出来たのです。
編集長が7分で解説!日本史を変えた槍について
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下馬して敵騎兵を刺殺した原虎胤
甲陽軍鑑には、天文16年、当時50歳だった原虎胤が送り足軽の任務について戻る途中、敵の騎兵4人につけられている事に気づき、ある程度距離が近づいた所で下馬して槍を振るい、騎兵4人を突き殺したと記録されています。
原虎胤は馬上で槍を振るうより地面に下りて足場の堅い所で槍を振るう事を選び、同時にたった1人の原虎胤に4人の騎兵は為す術がなかった事が分かります。騎兵をある程度離れた場所から突き殺せる槍の誕生は、歩兵に優位した騎兵の存在価値を低下させていました。
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機動力としての騎兵
1人の原虎胤に対して4人の騎兵が刺殺されたぐらいなので、足軽槍隊が整列して槍を構えて槍襖を造ると、もはや危険を冒してまで、これに挑みかかろうとする騎兵はいませんでした。
戦国時代後期に鉄砲が普及すると騎兵の天敵は鉄砲足軽となり、槍兵の役割は低下しますが、それでも騎兵の突撃を回避する抑止力としては活用されます。
この状況では騎兵に突撃兵器としての役割を期待する事は出来なくなりました。そして、突撃が出来ないなら徒歩よりは遥かに速い機動力を活かして戦場に逸早く兵士を到着させ、馬を鉄砲の弾が届かない位置まで下げる方法が考案されます。
これが騎馬の竜騎兵化だったのです。
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山本勘助。武田騎馬隊竜騎兵化を提案
山鹿素行の武経全書によると、天文12年(1543年以降)武田家に侍大将として迎えられていた山本勘助が馬を退かせ、馬を遠ざける事を信玄に提案し、これを採用した武田軍は他家よりも有利に戦えるようになったと言います。
この頃から武田家では、武者も足軽大将も戦場間近になると、下馬して口取りの中間に馬を預けて、弾が飛んでこない後方に退却させ、自分達は槍を振るって敵陣に突撃して行ったわけです。
徒歩になった武田の将兵は、何よりも一番槍を狙いました。誰よりも先に敵陣に入り名のある将の首を獲る、それが一番の恩賞として讃えられたからです。そして、功名と野心に満ちた勇敢な武者が敵陣を突き破って背後に回り込むと、包囲殲滅を恐れた敵兵は浮足だち潰走してしまう事が多くありました。
武田氏と違い、周辺の大名は騎馬武者と足軽が混在していたので、武田家は一番槍を掲げる事で連戦連勝できたという事でしょう。しかし、もちろん他家も武田家を真似て馬を後方に下げるようになり、関東の戦場では馬があまり戦場にいないというのが当たり前になっていきました。
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三方ヶ原で騎兵を使わない信玄
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、浜松城に籠城した徳川家康と佐久間信盛に対し、信玄は挑発するように城を素通りしていき、怒った家康が佐久間信盛の軍勢と追撃を掛けると、それを見越していた信玄は魚鱗の陣で待ち構え撃破したとされます。
三方ヶ原は地名からして、平地で騎馬の展開はしやすかったと考えられますが、信玄は騎兵の突撃をせずに魚鱗陣という歩兵の戦術で待ち受け、慌てて鶴翼の陣で迎撃した織田・徳川連合軍を突き破り2000名もの死傷者を出させました。
逆に武田の死傷者は諸説ありますが200名とも言われ織田・徳川連合軍の1/10です。この時には包囲殲滅に近い状態が発生したのではないかと推測します。信玄は騎兵の突撃を捨て機動力のみを使う事で、逆に騎兵と歩兵が混合する敵よりも合戦において優位に立ったのです。武田騎馬軍団の首領が、騎兵の突撃を捨て逆に勝利を掴んだとは皮肉な感じですね。
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日本史ライターkawausoの独り言
槍足軽に圧倒された騎兵ですが、騎兵による戦場の蹂躙はゼロになったわけではありません。騎兵の天敵である槍足軽が崩れたり、鉄砲足軽がちりぢりになるとそこに馬を突撃させてさらに敵を混乱に陥れる事はありました。
それらの判断は臨機応変になされ、状況によって騎兵の出番はあったりなかったりしたのです。
参考文献:武器が語る日本史 徳間書店
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