甲斐の虎武田信玄、そんな信玄のイメージと言えば頬髯と口ひげを蓄えた坊主姿です。これは武田信玄が永禄2年(1559年)に出家してからのイメージなのですが、ところで信玄はどうして坊主になったのでしょうか?
理由は1つではありませんが、その中には上杉謙信への対抗心もあったようです。
戦国大名はどうして権威を欲しがったの?
戦国時代は下克上の社会、卑しい身分でも実力次第でどこまでも上を目指せる。一昔前まで戦国時代はこのように定義されていましたが、実際は多くの戦国大名が朝廷の官位や幕府の役職を欲しがり、京の公卿から姫を輿入れさせてもらうなど旧時代の権威を積極的に利用する方針でした。
戦国大名はローカルな存在であり、領国内では万能権力者でしたが領国を一歩出てしまえば、そこには土着の国人や地侍の勢力があり、そのような勢力を味方につけるには、自分がいかに朝廷や幕府から重んじられているかPRするのが手っ取り早かったのです。
今風にいえばローカルタレントよりも全国区のテレビに出ているタレントの方が知名度も高く売れている(ように見える)みたいな感じかも知れません。特に近隣に強力な戦国大名がいて、周辺の中立勢力を味方に取り込む時には、いかに相手を超越する地位を持っているかが重要でした。
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謙信の関東管領就任に嫉妬し坊主になる信玄
さて、武田信玄終生のライバルと言えば上杉謙信です。上杉謙信の出身母体である長尾氏は代々管領職の上杉氏に仕えている守護代であり、鎌倉時代から甲斐守護職だった武田信玄とは大きな身分の開きがありました。
しかし信玄が優勢であったのも束の間、謙信は領国内の港からの関税収入を元に室町幕府に献金を繰り返し地位はみるみる上昇していきます。
こうして信玄が大膳大夫、信濃守従四位下であった頃、上杉謙信は弾正小弼従四位下となり同格に並び、さらに謙信が関東管領職に就任した事で網代輿や朱傘の使用を認められて、信玄の家格を追い越してしまいました。
悔しい信玄は、すぐに朝廷に献金し大僧正の極官を手に入れ、出家して入道となり関東管領より格上になり復讐を果たします。それでも収まらない信玄は上杉謙信の関東管領職を認めたくないばかりに書状では上杉の名を使わず一貫して長尾輝虎と書き続けていました。
まるで子供のケンカですが、北信濃領有を巡り謙信と熾烈な綱引きをしていた信玄は、関東管領就任で謙信の状況が有利になり、日和見している周辺の国人が
「だっせー!武田のハゲ坊主。官位で上杉に抜かれてやんの。これからは上杉に味方した方が得だな!」
このように雪崩を打って上杉に加担する可能性を恐れていたのです。
もちろん、信玄ほどの人物が謙信への嫉妬心だけで仏門に入るはずもなく、当時甲斐国内で起きていた飢饉に対し、疑似隠居して謝罪する事で領民の不満を鎮める効果を狙ったり、全国の寺社勢力に対し強い発言力を得る効果もありました。
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残念!死後謙信に抜かれる信玄
しかし、急場しのぎで大僧正になった事が信玄の死後にネックになります。
信玄の死から100年以上後、徳川綱吉の側用人として権勢を奮った柳沢吉保は甲斐源氏の子孫を自称し、同族の信玄を尊敬していたため京都所司代を通じて朝廷に対し信玄に贈位するように働きかけました。
信玄は存命中に従四位下でしたから、これが従三位になれば晴れて公卿であり、謙信に大きく差をつける事になります。ところが朝廷は信玄が出家し俗世と縁を切っている事を理由に前例がないとして贈位を拒否したのです。
信玄が予想しようもない痛恨のミスでした。
日本が明治維新を迎えると明治政府は過去の名将に贈位して顕彰する事業を開始。明治41年(1909年)上杉謙信に対し従二位、義理の息子である上杉景勝に正三位を与えますが、信玄には遅れて大正4年(1915年)従三位が贈位されたのみでした。
なんと信玄はライバルの謙信はおろか息子の景勝にも官位で負けてしまったのです。
神様としても謙信に後れを取る信玄
明治に入ると謙信と信玄は神格化されていきますが、ここでも信玄はおくれを取ります。明治35年(1902年)に創建された米沢の上杉神社が最高ランクの別格官幣社とされたのに対し、大正8年(1919年)創建の武田神社は格下の県社扱いでした。信玄は神様としても謙信に敗北してしまったのです。
生前は実力伯仲した両者が、死後大きく差がついた背景には、武田氏が勝頼の時代に滅亡したのに対し、上杉氏は戦国を生き延び出羽米沢15万石の領主として江戸時代を生き抜き現在まで継続している事が挙げられます。滅亡した武田家と伯爵家として残った上杉家では、先祖に対する顕彰の勢いも違うわけで、それがそのまま信玄と謙信、死後の官位差になってしまいました。
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日本史ライターkawausoの独り言
まるで子供のケンカのように見える信玄と謙信の官位争い。しかし、そこには官位を相手より上にして周辺勢力を味方につけ、ライバルを蹴落としたいという熾烈な生存競争戦略がありました。
謙信の関東管領就任に焦り、何とか機転を利かせて大僧正になり面目を保った信玄ですが、まさか、そのせいで贈位がふいになるとは想像だにしなかったでしょうね。
参考文献:勘違いだらけの日本文化史 淡交社
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