NHK大河ドラマ「どうする家康」第五話では、元康が駿府で今川氏真に捕らえられたままの瀬名と信康、亀姫を救出しようとして本多正信と服部半蔵を送り込むも失敗する場面が描かれました。この救出劇はフィクションですが、その後、瀬名と信康と亀姫は人質交換で岡崎に戻る事になります。この人質交換は本当にあった事なのでしょうか?
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戦国時代では人質交換は当時よくあった
戦国時代、人質交換はそんなに珍しい事ではありませんでした。松平元康自身、元々は織田家の人質でしたが、今川と松平の連合軍が安祥城を落し、城主だった信長の兄、織田信広を捕らえた時に人質交換で義元に引き渡されたのです。
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瀬名や信康とトレードされたのは誰?
では、駿府に抑留された瀬名と信康とトレードで引き渡されたのは誰でしょうか?これは、今川氏に味方した三河上ノ郷城主、鵜殿長照の息子、氏長と氏次でした。交渉役には石川数正があたり、今川氏真は瀬名と信康、亀姫を引き渡す事を了承します。
この時点で、瀬名の両親は裏切り者として処刑されていて、抑留状態が長引けば瀬名や信康、亀姫も同じ運命を辿ったかも知れません。どうして氏真が鵜殿長照の息子と元康の妻子の交換を承知したのかは不明ですが、鵜殿長照の生母が今川義元の妹で氏長と氏次は氏真から見て従兄弟にあたるからかも知れません。
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人質交換に出された氏長と氏次、その後
元康に捕らえられて駿府に戻された鵜殿氏長は、一時は吉良城を守っていましたが、松平の軍勢に攻められて駿河に退却。1568年には徳川家康に降伏して、上ノ郷を安堵され、遠江二俣城を任されています。その後も氏長は手柄を立て、家康が関東に異動すると1700石を与えられ、大坂夏の陣でも使い番として活躍しました。
弟の氏次は、兄と共に家康に降る事をよしとせず、浪人として落ちぶれ果てた生活をしていたそうですが、1590年に従兄弟の松平家忠を頼って仕官し支配下に入ります。そして関ケ原の前哨戦である伏見城の戦いで西軍と戦い、主君である家忠と討ち死にしました。
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瀬名姫は離縁されていた説
人質交換で岡崎城に戻ってきた瀬名姫ですが、岡崎城に入る事はなく付近の寺に滞留したとされています。この理由は元康が今川氏と手を切って織田と結ぶと決めた段階で瀬名姫とは離縁していたからではないかとも言われています。
では、元康は離縁した瀬名姫をどうして取り返したのか?という事ですが、離縁したとはいえ、瀬名姫との間には嫡男信康と長女の亀姫が生まれていたからだと考えられます。当時の元康には、信康と亀姫以外に子供はいないので取り戻す必要があったのです。
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信康が徳姫と縁組し正妻ポジションに返り咲く
一度は元康に離縁されたとおぼしき瀬名ですが、1567年嫡男の信康が織田信長の娘と縁組する事になり、生母としての瀬名の威信が回復します。1570年、信康が嫡子として岡崎城に移されると、瀬名も嫡子生母の立場で岡崎城に入城しました。
瀬名の復権が窺い知れるのは、1574年家康の側室、長勝院が家康の次男結城秀康を出産した時です。この時家康は瀬名の了解を得ないで側室を置いていたようで、妊娠を知った瀬名は怒り、長勝院を岡崎城内から退去させています。これは単純な嫉妬心ではなく、夫の側室を選ぶ正室の権利を行使したもので、信康生母として瀬名が強い権限を持っていた証拠と考えられます。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は人質交換について解説しました。戦国時代は裏切りの連続でしたから人質を送る事が最大の安全保障として機能していました。今川氏を裏切った元康の妻として殺されるかも知れなかった瀬名ですが、当時、広くおこなわれていた人質交換のお陰で首を繋げたと言えるでしょう。
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