NHK大河ドラマどうする家康第十五話「姉川でどうする?」では、徳川四天王最後の1人、井伊直政が登場します。そんな井伊直政は史実ではどんな人だったのでしょうか?分かりやすく解説してみました。
この記事の目次
井伊直政の凄絶な生い立ち
井伊直政は、幼名を虎松と言い、永禄4年(1561年)遠江国井伊谷に井伊直親の嫡男として誕生しました。当時の井伊氏は駿河を拠点とする戦国大名、今川義元に仕えている国人領主でしたが、井伊家の当主である井伊直盛が桶狭間の戦いで義元に従って討ち死にします。井伊家の当主は直政の父である直親が継ぎますが、直親も義元の跡を継いだ今川氏真によって謀反の嫌疑を掛けられ殺害されてしまうのです。
この時、虎松は僅か2歳であり、とても家督は継げないので、叔母にあたる次郎法師が井伊直虎と名前を変えて女城主になります。井伊直政の人生は苦難のスタートでした。
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井伊直政の波乱の生涯
今川氏真は、それでも虎松を疑い殺そうとしますが、今川家の重臣、新野親矩が助命嘆願して許され、生母ひよと共に新野家で暮らしますが、新野親矩も永禄7年に討ち死にし、虎松は生母と各地を転々とします。永禄11年(1568年)最大の試練が虎松を襲います。この年、武田信玄が今川氏の本拠地駿府を襲撃。井伊家の家老だった小野道好が氏真の命令として幼い虎松を殺害し、自らが井伊谷の軍勢を率いて進撃すると言い出したのです。虎松を助けたい直虎や生母のひよは、やむなく虎松を出家させ三河国鳳来寺に入れました。
その後、今川氏は滅亡、天正2年(1574年)、虎松が父直親の13回忌のために龍潭寺に来た時、徳川家康に仕えさせる事で話がまとまります。虎松は嫌がったようですが、母のひよが徳川家臣の松下清景に嫁いで虎松を松下家の養子にして逃げられないようにしたようです。天正3年(1575年)、今川氏より遠江を奪い取った徳川家康は、虎松を引見し、井伊姓に復する事を認めて井伊谷の領地を与えました。これに合わせて虎松は井伊万千代と改名し、正式に家康の家臣となります。
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井伊直政は徳川家で何をした人
井伊直政は徳川四天王と呼ばれる戦闘力の高い人物でした。家康に仕えるようになってすぐ、高天神城の戦いで武田勝頼軍を破り本能寺の変では家康の伊賀越えに従って家康を守り、後北条氏と旧武田領の分割で揉めた天正壬午の乱では徳川方の使者として講和を担当信濃と甲斐を徳川領にします。
この時、武田家の旧臣達を多数与えられ一部隊を編成します。直政は、武田の遺臣に信玄以来の赤い甲冑を許したので、これにより井伊直政の軍は井伊の赤備えとなります。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで直政は初めて赤備えを率います。直政は小柄で顔立ちも少年のようでしたが、赤い鎧兜に鬼の角を立てて、大怪我を恐れずに長槍で敵を蹴散らしていくスタイルは勇猛果敢で、井伊の赤鬼と呼ばれ戦場で恐れられました。
直政は遅れてきたルーキーでしたが、古参を押しのける猛烈な手柄の立て方でのし上がり、小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城に攻め込んだ武将として名前が刻まれます。後北条氏の滅亡後、家康が関東に入ると、直政は上野国箕輪に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられました。滅亡寸前だった井伊家を一代で徳川屈指の名家にしたのが、直政だったのです。
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井伊直政の美形エピソード
直政は「容顔美麗にして心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」と記録され、美男子だったそうです。家康が豊臣秀吉に従属する前、家康を懐柔するために人質として送られてきた秀吉の母である大政所やその侍女達も直政の美しさに惚れ込んだそうです。
また、容姿だけではなく、直政のもてなしがとても丁寧で真心があったからであるとも言われています。大政所は秀吉の元に帰る時も、警護役として直政を懇願していて、かなり別れを惜しんでいる様子が窺えます。
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井伊直政は毎回傷だらけ
井伊直政は華奢な体つきで、女性のようだったそうで、武将としての素質に恵まれていませんでした。しかし、それをカバーするために全身を重装備で覆い、いつ死んでもいいような覚悟で奮戦し、毎回傷だらけで帰ってきたそうです。同じ徳川四天王でも、本多忠勝は軽装で一度も傷を受けた事がないのが自慢だったので、随分違います。
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井伊直政の死因は鉄砲によるガス壊疽
井伊直政の死因は火縄銃で狙撃された足に弾丸が残った結果起きた、ガス壊疽と言われています。関ケ原の戦いの終盤に井伊直政は家康の本陣に突撃して方向を変えて逃げ出した島津義弘軍に立腹して追撃します。
そして、義弘の甥である島津豊久を討ち取り、更に退却する島津軍を追撃、部下をおいてけぼりにして必死で駆けたせいで、遂に義弘の目前まで迫りますが、島津軍の鉄砲足軽柏木源藤に足を狙撃され落馬しました。治療は受けたものの、当時の外科手術では深く入り込んだ弾丸が取り出せず、これが腐食して毒素を発し、ガス壊疽を起こし死んだと考えられます。
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井伊直政は晩年まで働き続けた
鉄砲傷が悪化し、体調が思わしくない中でも直政は懸命に働きました。病を推して西軍の総大将毛利輝元と交渉。直政は輝元の懇願を精一杯聞き入れ、周防・長門の2か国を安堵し輝元に感謝されています。また、自分を狙撃した島津氏との和平交渉を仲立ちし、真田信之に頼まれて、真田昌幸とその次男信繁の助命にも尽力していました。
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井伊直政の最期は寂しかった
井伊直政は、慶長7年(1602年)2月1日、彦根城築城途中、近江佐和山城で42歳で死去します。遺体は遺言で当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され跡地に長松院が建立されています。家督は長男の直継が継いでいましたが病弱で、大坂冬の陣に出兵する時、家康の命令で次男である井伊直孝が後継者に指名されました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は遅れてきたルーキー、井伊直政を解説しました。どうする家康では、家康の命を狙う刺客として登場した直政ですが、今後はどのように家康と関係していくのでしょうか?
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