本多忠勝の身長はどのくらい?長身でイケメンだったの?


 

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徳川家康と共に武功を重ねる本多忠勝

 

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」で家康に容赦ない鉄拳制裁を加えているのが、後の徳川四天王、本多平八郎忠勝です。実際は家康より6歳下ですが、情ない家康を容赦なく躾けるスパルタぶりには、立派な主君に仕えたいという忠勝の願いが込められています。ところで、本多忠勝は豪傑だけあって身長は高かったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本多忠勝の出身地はどこ?

三河国

 

 

本多忠勝は、天文17年(1548年)、安祥松平家の最古参の譜代、本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前、現在の愛知県岡崎市西蔵前町で誕生しました。しかし、忠高は忠勝が1歳の時、小豆坂の戦いで父が討ち死、叔父の本多忠真の手で養育されます。

 

本多忠勝とは?

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どうする家康

 

 

本多忠勝のプロフィールとは?

イケメンすぎる本多忠勝

 

 

本多忠勝は1548年に松平家の最古参の譜代家臣、本多忠高の長男として誕生しました。

 

一歳で父、忠高を亡くして後は、叔父の忠真に養育され、13歳で桶狭間の戦いで初陣します。その後は三河一向一揆や、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いと家康の主要な合戦には参加し、本能寺の変後、家康の伊賀越えでは家康を逃がすために槍の腕を振るいます。

 

本多忠勝の単騎駆け

 

 

1584年の小牧・長久手の戦いでは、家康に留守を命じられながら、羽柴秀吉16万の大軍に苦戦する徳川のピンチを見かねて飛び出し、僅か500騎で秀吉本陣8万の前に立ちはだかり、進軍を止める神技を見せました。

 

 

 

家康が東海から関東へ国替えとなると上総国大喜多に10万石を与えられて大名となり、関ケ原の合戦では小数ながら首を90以上も獲る戦果を挙げ、交通の要衝である伊勢国桑名10万石の大名に移封となりました。晩年の忠勝は眼病を患い、家康の警護が出来なくなり、1610年本拠地桑名で死去しますが、死ぬ直前まで家康と共に死にたいと願っていたそうです。

 

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本多忠勝の身長は高かったの?

本多忠勝

 

本多忠勝には本人のものとして伝わる鎧があり、その銅の長さから推測すると身長は157センチ程度と、当時の男性の平均身長だそうです。しかし、小さくても忠勝は剛力で高さ6mの長槍、蜻蛉切を振り回して戦場では天下無双でした。一方で稽古では弱く、周囲の人は意外に思ったそうです。

 

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本多忠勝の身長は四天王で何位?

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本多忠勝の身長は徳川四天王では何位なのでしょうか?戦国時代には身長測定などないので、正確な事は分かりませんが、鎧の大きさなどから比較すると榊原康政が160㎝、井伊直政が165㎝、酒井忠次が不明となっています。この順番でいくと忠勝は四天王で一番小さい事になり、身長については最強ではなかった事になります。

 

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本多忠勝の身長、体重は?

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体重についても後世までは伝わっていませんが、肥満していれば鎧の胴回りも太くなります。しかし、忠勝の鎧は至って平均サイズなので太ってはいません。身長から考えると大体60キロ前後の体重です。

 

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本多忠勝は一体どのくらい強いの?

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本多忠勝は、13歳の時に桶狭間で初陣を迎えてより、57回の合戦に参加しています。しかし、驚く事にその体には一つの傷もありません。どんな強者も忠勝の体に僅かな傷さえ、つける事が出来なかったのです。同僚の井伊直政が重装備で傷だらけなのに比較しても、忠勝の強さは桁外れでした。

 

本多忠勝最強伝説

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はじめての戦国時代

 

本多忠勝の本名は何と言う?

張飛と本多忠勝

 

本多忠勝の名前は忠勝です。しかし、これは諱と言い、親しい人以外は口にできませんでした。一方忠勝の通称は平八郎、子供の頃は鍋之助という変わった名前でした。また、忠勝の異名としては、その鹿角の脇立てから三河の鹿と呼ばれています。

 

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本多忠勝の仰天エピソードは?

名古屋城

 

本多忠勝には、切れ味鋭い槍の腕前についてのエピソードがあります。忠勝が晩年に息子、忠政と舟遊びをしていた時、戯れに群生している葦を櫂で薙いでみよと忠政に命じました。忠政が櫂を水平に振るうと、葦はペタンと倒れただけでしたが、忠勝が櫂を振るうと、葦は鎌で切ったように薙ぎ払われたそうです。櫂でここまで出来るという事は、忠勝が鋭利な槍を振るえば、どんな敵も真っ二つになったという事です。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

本多忠勝の身長は157㎝と当時の男性の平均身長で徳川四天王では一番小さいです。しかし、中肉中背ながら筋力は桁違いに強く、長さ6mの蜻蛉切を軽々振り回し、向かう所敵なしの最強武将だったのです。

 

参考:本多忠勝の身長はどれくらい?愛用の蜻蛉切や黒糸威胴丸具足から身長推測

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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