朝鮮出兵
天下を統一した秀吉ですが、更なる野望がありました。それは大陸への侵攻です。大陸の現在の中国に当たる場所には明という国がありましたが、秀吉はこの明を攻撃して支配することを本気で考えました。その明への攻撃のための道案内を朝鮮王朝に依頼しようとしたところ、反発され、秀吉は朝鮮王朝への攻撃を決意しました。
北九州に名護屋城を築城させ、そこを拠点に軍勢を海に渡らせます。遠征は2回行われました。最初は、文禄の役と呼ばれるもの。これは、戦国時代を戦い抜いてきた日本軍の軍事力の高さと、油断していた朝鮮側との関係もあり、瞬く間に朝鮮半島全土を制圧するくらいまで躍進しています。
しかし明軍の派遣により形勢逆転。逆に日本軍が押しこまれていきました。
いったんは講和が行われて日本軍は撤退します。しかし明の使節を迎えたときに秀吉が思っていた内容とは大きく異なることを知り激怒。再度軍を朝鮮半島に派遣することになりました。これが2回目の慶長の役と呼ばれるものです。この戦いは最終的に秀吉の死によって中断され、日本軍が撤退します。
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秀次事件
全国統一後の秀吉は、失政と思われるようなことが続きました。
朝鮮出兵や側近として仕えていた千利休を切腹させるなど、豊臣政権を自らの手でぐらつかせています。しかしその中でも秀次事件は最大の失政と言える事件でした。
秀吉には子がおらず、長く秀吉を支えていた弟の秀長や淀君との間にできた鶴松もすぐに亡くなってしまう状況。そのようなこともあり、甥にあたる秀次を後継者として1991年の12月に関白の地位を譲ります。
そして太閤となった秀吉は、内政を秀次に任せて朝鮮出兵を画策します。ところが1993年に秀頼が誕生。これにより秀次の立場が微妙になってしまいます。ここで1995年の6月に突然秀次に謀反の疑いがもたれてしまいました。
鷹狩を口実として反秀吉一派なるものが集まり、その中心に秀次がいたというもので、信じがたい内容ですが、秀吉の奉行衆が詰問。秀次は謀反を否定して誓紙をしたためました。ところが秀次が前年に毛利輝元と独自誓約を交わしたとの情報が流れてしまいます。
秀次は伏見城に出頭。
そのさいに伏見城への途上が許されず、高野山へ追放されてしまいます。その後監禁されながら高野山で過ごす秀次は7月に切腹が命じられました。しかし秀吉の怒りが収まらず秀次の一族39名が斬首という痛ましい結果となってしまいます。さらに秀次が住まいとしていた聚楽第も破壊しました。
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秀吉の死
秀次の死は、その後の豊臣政権の家臣団の分裂につながるきっかけになりました。再度の朝鮮出兵が行われた最中。ついに秀吉が最期のときを迎えます。秀吉は自らの死を悟ると、幼い秀頼を支えてもらう体制を整えました。
秀次事件以降に連署を行った6名の有力大名のうち、死去していた小早川隆景を除く5名を五大老にして政権の最高機関にしました。
この五大老は次のメンバーです。
- 徳川家康
- 前田利家
- 上杉景勝
- 毛利輝元
- 宇喜多秀家
そして事務処理を行う担当として五奉行を制定しました。
- 石田三成
- 浅野長政
- 前田玄以
- 増田長盛
- 長束正家
1598年に秀吉は死去。豊臣政権を支える体制を最後まで構築しましたが、秀吉亡き後は家康の野心の前に崩壊。
石田三成らの豊臣政権の中枢部と、秀次事件以降に分裂した一派とが分裂して関ケ原の合戦が勃発。
これに勝利した家康が天下を取り、江戸時代へと変わっていきます。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
織田政権の位置家臣だった秀吉は、本能寺の変をきっかけに一気に次の天下人として勢力を固めていきました。関白の地位を得、最大のライバル家康を従わせ、信長が達成できなかった全国統一を果たします。
盤石と思われていた豊臣政権ですが、朝鮮出兵や甥の秀次事件が重なり、体制がぐらつく中、秀吉が死ぬことで政権が分裂状態。それを利用した家康により関ヶ原で豊臣政権は事実上崩壊。江戸に幕府が誕生し、長い平和の時代が続きます。
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