大谷吉継は、石田三成の親友として知られています。一方で吉継は徳川家康とも仲が良く、秀吉の没後には家康の天下になる事を予見していました。それでも、関ケ原の戦いで吉継は家康よりも三成との友情を取って討ち死にを遂げています。その理由はなんだったのでしょうか?
この記事の目次
母が秀吉の正室高台院の縁者
大谷吉継は近江国で永禄2年(1559年)に誕生したとされています。父は六角氏の旧臣だった大谷吉房とも、青蓮院門跡坊官大谷泰珍の子とする説もあります。しかし、大谷吉継の場合には、その出世には父よりも母の影響が大きいようです。吉継の母は、豊臣秀吉の正室である高台院の取次役だった東殿であり、豊臣政権で大きな影響力を持っていました。吉継は母の影響力で段階的に引き立てられていく運命にあったようです。
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長浜城主時代の秀吉に仕える大谷吉継
継は天正年間の初めに長浜城主となっていた秀吉の小姓となり、秀吉が信長から播磨攻略を命じられた時には、後の賤ヶ岳七本槍の脇坂安治や福島正則、加藤清正などと秀吉御馬廻り衆として大谷平馬という名前で登場します。天正10年の備中高松城攻めでも大谷吉継は秀吉の馬廻りとして従軍し、ここで本能寺の変に遭遇しました。
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賤ヶ岳の戦いで手柄を立てる大谷吉継
吉継の主君である秀吉は信長の弔い合戦である山崎の戦いで明智光秀を討ち取り、清須会議でも主導権を握ります。その中で織田家宿老柴田勝家と秀吉の関係が悪化、賤ヶ岳の戦いが勃発しました。吉継はここで近江長浜の城主になっていた柴田勝豊を調略して秀吉の陣営に寝返らせる働きをしています。
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秀吉が関白になると刑部少輔へ
1585年に秀吉が近衛前久の猶子となり、従一位、関白に就任すると吉継は従五位下刑部少輔に叙任され、大谷刑部と呼ばれるようになりました。1586年の九州征伐では、兵站奉行石田三成の配下となって功績を挙げ、1589年には越前国敦賀郡に2万石を与えられ敦賀城主となりました。吉継は、小田原征伐や奥州仕置にも続けて従軍し、検地などを担当し加増を受け、敦賀5万石の大名に昇格します。
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戦闘では輸送に才能を発揮した大谷吉継
吉継は、文禄・慶長の役では船奉行及び軍監として船の調達、物資輸送の手配などを務めて手柄を立て1592年の6月には、秀吉の命令で奉行衆の一人として石田三成や増田長盛らと共に渡海し、従軍している諸大名の作戦指揮をし、同時に朝鮮の役の詳細な報告書を書いて秀吉に提出しました。続く慶長の役でも渡海しますが、すぐに戦線は膠着し日本に引き揚げています。吉継は秀吉の覚え目出度く、秀吉が供回りを連れて吉継の屋敷を訪ねると、歓待して接待するなど関係が親密でした。
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秀吉没後は家康に接近する大谷吉継
慶長3年に秀吉が死去すると、翌年、家康と前田利家の仲が険悪になり、徳川邸襲撃の風聞が立ちます。この時、吉継は、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと家康の屋敷にやってきて家康を警護しています。その後、前田利長等が、家康暗殺計画を企てたとする噂が出ると吉継は、家康の命令で越前表に出兵して利長に備えました。
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三成を東軍に参加させようとして逆に説得される
慶長5年家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があるとして自ら兵を率い上杉討伐軍を起こします。この時、家康とも親しい吉継は3000の兵を率いて討伐軍に参加しようとしますが、途中で石田三成の居城である佐和山城へ立ち寄ります。三成とも親しい吉継は三成と家康を仲直りさせるため三成の嫡男、石田重家を自らの軍中に従軍させようと考えて立ち寄ったのですが、逆に三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられました。吉継は、この時、3度にわたってお前では勝ち目がないと三成を説得しますが、三成の固い決意を知ると心を動かし、敗戦を予測しながら息子達共々西軍に味方しました。大谷氏は真田のように一族で東西に分かれる事無く一族挙げて西軍に味方しています。
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運命の関ケ原へ
吉継は三成の要請を受け脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、戸田勝成ら諸将を率いて美濃国に進出しました。関ヶ原の戦いの時、吉継はすでに眼病で目が見えず、後方で軍を指揮、午前中は藤堂高虎や京極高知軍を相手に奮戦します。ところが正午になると、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5000が大挙して東軍に寝返り大谷隊を攻撃します。
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小早川ばかりか味方も裏切り壊滅
吉継は最初から小早川軍の動きに不信感を持って備えており、直属の600の兵で15000の小早川軍を何度も押し返し松尾山に追い返します。ところが、吉継が小早川秀秋の寝返りに備えて配置していた脇坂、朽木、小川、赤座の4隊4200人が東軍に寝返って大谷隊に横槍を仕掛けます。これで600の大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの寝返り部隊、背後は小早川隊の袋叩きに遭い、ほどなく壊滅、吉継は自害して果てています。
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日本史ライターkawausoの独り言
大谷吉継は時流が読めていた人であり、次の天下は家康と見定めていました。その中で上杉景勝を家康が討伐するのを三成の謹慎を解かせる好機とみて、佐和山に立ち寄り、三成の嫡男、石田重家を家康に従軍させるように説いたのかも知れません。しかし、三成が長年の豊臣への恩顧を語っていくうちに、吉継もまた秀吉の引き立てなしには、ここまで来られなかった事を思い出し、翻意して西軍についたというのが真実に近いのでしょうか?
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