大名と言えば、戦国大名、守護大名、大名行列など、勢力がありブイブイ言わせていた強力な武士の称号的イメージがあります。でも、そもそも大名って何を意味していて、日本の歴史上いつ登場してきたのでしょうか?
今回は知って得する大名の意味について考えてみようと思います。
大名の名とは名田の管理者
簡単に言うと、大名とは大きな名田を管理している名主の事を意味しています。逆に小さな名田を管理している名主は小名と呼ばれていました。では、そもそも名田とは何なのでしょうか?
私たちは日本史の授業で公地公民制と班田収授法について習いますよね?
これは平たく言うと、全ての土地と人民を天皇が一元的に支配して、これまた天皇の土地である農地を人民に口分田として貸し与えて、そこから上がる収穫物を税金として徴収するという仕組みの事です。
しかし、この口分田、あんまり上手くいきませんでした。
原因は農民にかかる税金があまりにも重すぎたからで、収穫物ばかりでなく、特産品を作り、反物を織り、しかも防人として兵役に就く義務まで課したので、税金を払えずに逃亡し豪族や寺社や貴族に匿ってもらったり、戸籍を偽って申告して税金逃れをしようとする農民が続出しました。
こうなると口分田は荒れ地になってしまい、国司はまともに税金を取れなくなります。ここで登場したのが田堵と呼ばれる人々であり、田堵に管理を任せた名田でした。
ありゃ?名田について説明する前に田堵が出てきましたね。こーれだから古代史は非常にややこしい、ひとつの名称を説明しようとすると、まーた別のワードが出てきて、行ったり来たりして大変です。
でも、もう少し辛抱して下さい!後600文字くらい読むとスッキリしますから
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田堵とは何者?
では、田堵とは何者でしょうか?
大和朝廷は、口分田から税金が集まらないので743年に墾田永年私財法を発布して、自分で開墾した土地は(課税はするけど)自由に売買していいよと許可を出します。
これは、土地は天皇のモノという公地公民制の全否定なんですが、朝廷も背に腹は代えられなかったのでしょう。その結果、お金と権力を持っている豪族や貴族や寺院が小作人や人を雇って荒れ地をどんどん開墾していき初期の私有地、荘園が誕生します。
この時、経済力があった富農も村人を雇用して開墾を進めて自分の土地を持ちます。開墾した土地を豪農は小作人を使って耕させるようになりますが、この自分の土地を持った富農が田堵でした。
同じ頃、大和朝廷は国司の権限を大幅に拡大し、部下に税金を取り立てを任せる事を認めました。国司に代わって税金徴収を請け負う存在を受領と言います。
この受領も口分田から税金を取る事に苦労しますが、田堵が近くで小作人をこき使いキビキビ働かせている様子を見てハタと思いつきます。
「田堵に儲けを分けてやるかわりに、口分田から税金取らせればいいんじゃね?」
こうして受領は田堵に口分田からの税の徴収を請け負わせます。それまで税金は国司が1人、1人の農民から徴収して手間ヒマがかかりましたから、それを田堵が一括してやってくれるなら大助かりです。
受領は田堵が受け持つ口分田を名と名付け、そこからの税金徴収を任せました。同時に田堵も、名の主として名主と呼ばれるようになります。
もうお分かりですね?
田堵が受領から税金徴収を請け負った田畑を名と言い、大きな面積の名を管理しているのが大名。それより小さな面積の名を管理しているのを小名と呼んだのです。
元々、大名とは地方の豪農で、国司の家来である受領の委託で名田から税金を徴収する便利屋さんとして歴史の表舞台に登場しました。
やがて名主は国衙領である口分田の官物だけでなく、荘園の年貢の取りまとめも荘園領主から依頼されるようになり、農地経営の中核の役割を果たす事になります。
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独立する大名
当初は受領に対し受け身だった名主ですが、富を貯え一族郎党を率いると、次第に受領に対して反発するようになります。受領は徴税請負人であり、朝廷に納入した税収の残りは自分の収入に出来ましたから、とにかく収奪しようとするわけです。
一方で名主は自分の取り分を守らねばならず、また名田の農民を搾取しすぎて逃げられたら困るので利害は対立しました。そこで名主は自分の名田を藤原摂関家や上皇や大寺院に寄進する事で不輸・不入の特権を得ようとします。不輸の権は税金を免税される特権、そして不入の権は国司や受領が荘園に足を踏みこめない権利です。
このような荘園を寄進地系荘園と言いますが、平安の終わり頃には全国の荘園は、どこもかしこも寄進地系荘園となり自治権を確立していく事になりました。
税収がほとんど消えた大和朝廷は国軍も解体し、健児の制を敷いて地方の郡司や庄司の子弟に官位を与えて私兵団を創設したりして賊を討伐させるような有様になり、名主も自分の一族郎党を武装させて、他所の荘園からの侵略に備えるようになります。
やがて名主は、地方の武士団となり鎌倉幕府が成立すると支配下に入って御家人となったり、地方の国人勢力となるなど性質を変化させていきました。
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地頭による暴力的な地頭請
平家を倒した鎌倉幕府ですが、すでに全国の農地は荘園化していて命懸けで働いてくれた御家人に与える恩賞は全く足りませんでした。そこで、1185年、鎌倉幕府は完全に開き直り全国に守護・地頭を置き地頭に任命した武士に、赴任した土地の荘園や公領から自分の取り分を自分で取り立てよと命じたのです。
こうして、荘園・公領への地頭の領土的侵入が開始されます。年貢の横領は鎌倉幕府公認ですし、昨日まで命懸けの合戦をしてきた地頭に怖いものはありません。
かくしてオラオラと暴力的に年貢を要求する地頭に荘園領主や知行国主は押され、収入を確保する為に、苦肉の策として地頭に一定額の年貢納入を義務づけ代わりに現地の荘園・公領の支配を任せる地頭請を採用しました。
このような請負が行われた荘園・公領を請所といいますが、地頭請所ではほぼ例外なく地頭が年貢を丸々取って荘園領主や知行国主に渡さない年貢の未達が起きていました。
それでも、武力がない荘園領主にはどうする事も出来ません。まさに「泣く子と地頭には勝てない」のです。名主だった国人たちも一部は、オラオラ地頭の勢力下に入り被官化していきます。
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守護大名の登場
鎌倉時代になると幕府は、もうひとつ守護という地位を設置します。元々、守護は御成敗式目に規定があり、鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人・殺害人の捜索・逮捕、及び大番役の指揮監督という大犯三カ条の検断を任されていました。
見ての通り鎌倉時代の守護の役割は軍事と警察面のみで国司の権限である国衙行政や国衙領支配に関与する事は禁止されています。
しかし、室町時代に入ると状況が一変しました、鎌倉時代と違い幕府の樹立から南朝との戦いに入った室町幕府は守護の権限を拡大。1346年に、苅田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えたのです。
これは、国内の武士の所領問題の解決の為に所有権を認めた武士の為に田の稲を刈り取る権利と、幕府の判決をその場で執行する権利を意味しました。さらに1352年観応の擾乱における軍事兵糧の調達を目的に幕府は国内の荘園、国衙領から年貢の半分を徴収できる半済の権利を守護に与えます。
当初は戦乱が激しい近江、美濃、尾張にのみ認められた半済ですが、各地の守護大名は争って半済の恒久化と全国への拡大を要望しました。1368年に出された応安の半済令は従来認められた年貢の半分ではなく、土地自体の半分分割を認める内容で、こうして守護は荘園と国衙領に進出していきます。
やがて守護は、かつての地頭請けのように、荘園領主や知行国主から年貢の納入を請け負う「守護請け」を実施するようになると同時に、朝廷や幕府から段銭や棟別銭の徴収を引き受け、事実上の国司として荘園領主や知行国主を取り込んでいきます。
守護が勢力を伸ばす中で、国人となっていた名主も守護の手下として再編されて被官となり、守護は多くの名田を取り込んで守護大名と呼ばれるようになりました。
こうして大名は私たちが知っている大名の姿に近くなります。
戦国大名へ
応仁の乱の勃発で幕府の大名統制が大幅に低下し守護大名同士の紛争が増加します。それに歩調を合わせ、元は名主だった国人層の一揆などが顕著になりました。
これらの動きで没落し権威が低下する守護大名が出てくる一方で、幕府の権威をあてに出来なくなった守護大名が国人を取り込んで支配強化し完全な部下にしていくようになります。
つまり守護大名の中でローカル勢力の取り込みに成功したケースが戦国大名化し、それが出来ない守護大名は没落しより下位の守護代や国人領主に地位を奪われ、勝組の守護大名や、守護代、国人領主が戦国大名となり、地方に特化した政治システム、分国法を整備して、日本全国に割拠していくようになりました。
それらの戦国大名の中から、尾張守護斯波氏の守護代、織田家の奉行だった織田弾正忠家の大名、織田信長が台頭し尾張と美濃を平定し将軍足利義昭を奉じて上洛に成功。
次に本能寺の変で倒れた信長を羽柴秀吉が引き継ぎ、1590年には全国を統一し、全国の戦国大名を配下にします。やがて秀吉が死ぬと徳川家康が関ケ原の戦いに勝利。全国の戦国大名は徳川幕藩体制の序列に組み込まれて藩主と呼ばれる近世大名へと変化し廃藩置県を迎えるまで、日本各地に君臨する事になります。
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日本史ライターkawausoの独り言
以上、大名の誕生から変遷について見てみました。元々は、田畑を開墾して田堵と呼ばれる実力者になった富豪が受領の命令で口分田から税金を徴収したのが大名の最初で、それが時代を下るごとに成長していき、ついには戦国大名にまで昇進したのです。
やはり生産基盤である土地を抑える事が日本においては重要だったのですね。
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