徳川家康の旗印「厭離穢土欣求浄土」ってどんな意味?【どうする家康】

22/12/2022


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

軍旗

 

徳川家康の馬印(うまじるし)として有名なものに厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)があります。

 

水月観音像(仏像)

 

 

これは浄土教の中にある教えで、この世は欲望塗れの汚れた大地であり、阿弥陀如来の助けを得て清浄な世界に行きたいという願望が込められています。では、どうして浄土教の教えが家康の馬印になったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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桶狭間で今川義元が討ち取られ自害しようとした家康

五重塔(仏塔)仏教

 

家康は松平元康と名乗っていた頃、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした事を知ります。最前線にいた家康は、崩壊する今川軍の中から何とか逃げ出し松平家の菩提寺大樹寺に逃げ込みました。戦国時代の寺は俗世と隔絶された治外法権の場所で寺に逃げれば、ひとまずは安全だったのです。

 

切腹詐欺の徳川慶喜

 

 

しかし、義元が死んでしまっては松平家もどうなるか分からないと不安に駆られた家康は、松平家歴代の墓前で自害をしようと考えます。ちなみに家康は切腹好きな所があり、本能寺で信長が討たれた時も絶望して寺に入って切腹しようとし、本多忠勝に止められた話があります。

 

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登誉天室に切腹を止められる

登譽上人

 

 

ここで住職の登誉天室(とうよてんしつ)が登場し「厭離穢土欣求浄土」と説いて切腹を思いとどまらせました。

 

登誉天室は「戦国の世は皆が自分の欲望のために戦っているから大地が穢れきっている。しかし、この穢土を離れて平和な浄土を願い求め、私欲を捨て戦うなら必ず仏の加護を得て願いを成就できる」と言い家康は私欲を捨て去り、日本全体の為に争いのない平和な世を造ろうと決意し、それを忘れないために「厭離穢土欣求浄土」を馬印にしたとされます。

 

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はじめての戦国時代

 

 

正反対の説も存在する

天下を収めた徳川家康

 

 

この逸話は小説家山岡荘八(やまおかそうはち)の著書「徳川家康」で有名になり、山岡の原作を下敷きにした昭和58年のNHK大河ドラマ「徳川家康」で広く世間に浸透しました。

 

ところが、厭離穢土欣求浄土のエピソードには、まるっきり正反対の話もあるのです。それによると、「厭離穢土欣求浄土」の旗印は、家康が国内の一向一揆に苦しめられていた時、大樹寺の住職だった登誉天室が家康に味方し、家康から受け取った旗に自筆で「厭離穢土欣求浄土」と書いたとされます。

 

一向一揆(農民)

 

 

この説によると厭離穢土欣求浄土とは、生を軽んじ死を幸いとするという意味で命を惜しまずにガンガン戦って死ねば、必ず浄土に行けるという極めて戦闘的な意味でした。

 

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武田信玄

 

 

一向一揆に対抗し生まれた厭離穢土欣求浄土

三国志のモブ 反乱

 

 

どうして、こんな物騒な旗が掲げられたのか?それは家康が戦っている一向一揆が前進すれば極楽にゆき、退却すれば無間地獄に落ちると鎧に書いて戦っていたからでした。

織田信長と本願寺顕如(石山合戦)

 

 

一向一揆は、仏の教えに従い戦って死んだ者は必ず極楽に行けるとする戦闘的な宗派で、上杉謙信や織田信長とも激戦を繰り広げていました。死んだら極楽と聞かされた門徒たちは、死を全く恐れず戦国大名は度々、一向一揆に敗れていたのです。

 

「死んだら極楽にいけると信じている連中と戦うからには、こちらも死を恐れてはいけない。むしろ死ぬことを名誉とし、浄土に生まれ変わるのを喜べ」と登誉上人(しょうにん)は門徒を励ましたのです。つまり、厭離穢土欣求浄土の旗印は、一向一揆と戦う必要から生まれたと言えるでしょう。

 

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どっちが本当なのか?

野望を持ち始めた徳川家康

 

 

私利私欲を捨てて、全体の為に戦うなら仏の加護があると教える山岡荘八の小説に由来する厭離穢土欣求浄土と死を恐れない一向一揆と戦う上で、死んで汚れた穢土から浄土へ生まれ変わる事を喜べとする厭離穢土欣求浄土はどちらが本当なのでしょうか?

 

しかし反対に見える2つの説、注意深く見ていくと、私欲を捨て全体の為に命を捨てる事を肯定するという意味で、そこまで遠く離れていません。この世から争いを無くすために戦をしようと、己の欲望の為に戦をしようと、どちらにも等しく戦死者が出ます。だとすれば私欲塗れで死ぬより、天下泰平を求めて死ぬ方が尊いと厭離穢土欣求浄土の八文字は教えているのかも知れません。

 

口先で乱世を嘆き、平和を唱えるのは簡単ですが、それを実現するには大勢の犠牲が必要です。平和は好きだが敵を殺すのも自分が死ぬのもイヤだと言っていては永久に平和は来ない。家康は己が血に塗れても平和を目指そうと考えたのでしょう。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

家康は生涯に何度も大きな戦を起こし、その中で大勢の味方を失いました。しかし、そのお陰で家康は苛烈な戦国の生き残り競争に勝ち抜き、大坂の陣で豊臣家を滅ぼして後、200年以上の戦のない世の中を築きます。

 

家康に従い死んでいった無名の足軽の死は、その太平の礎になったのであり決して無駄な死ではなかったのです。厭離穢土欣求浄土は天下を獲り太平を築いた家康にこそ相応しい馬印であると言えるかも知れませんね。

 

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