大河ドラマ「麒麟がくる」は本能寺の変を迎えて大盛り上がりで終了しました。しかし、戦国の映画といえば大半は京都周辺の畿内、そうでない場合でもメジャーな戦国大名が多い東海や関東ばかりにスポットがあたりがちです。
でも、戦国時代は日本中が戦争していたのであり、地方にだって戦国時代はあったのです。そこで、ほのぼの日本史は、ご当地戦国特集として今回は宮城県の戦国時代を解説します。
この記事の目次
蝦夷と大和朝廷の対峙する前線基地
宮城県は律令制で陸奥国に属しています。陸奥国は大きく、青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県の北東部が含まれました。
現在の宮城県の地には古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでおり、最初の陸奥国府と推定される官衙は現在の仙台市太白区に設置。多賀城も築城され、奥六郡と対峙する軍事と政治の拠点化が進みました。
奈良時代の末期から平安時代の初期にかけ、仙台平野北部・三陸沿岸にいた蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し38年戦争が勃発します。伊治を拠点とする伊治呰麻呂は、陸奥国蝦夷の族長で大和朝廷に帰属し官位を受けて多賀城に出仕していましたが、大和官僚による蝦夷への差別に怒り、反乱を起こして多賀城を滅ぼしました。
これを契機に胆沢のアテルイが蜂起して大和朝廷との戦争が始まりますが、征夷大将軍、坂上田村麻呂に討たれて反乱は鎮圧されます。
しかし、大和朝廷の支配下に置かれた蝦夷は俘囚として結束し、11世紀半ばには北上平野の俘囚主、奥州安倍氏が仙台平野に勢力を拡大し多賀城の国司と対決します。
大和朝廷は源頼義を派遣しますが仙台平野の郡司は中立を守り、苦戦した頼義は仙北の俘囚主清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼしました。
陸奥の支配者になった清原氏ですが、その後内部分裂を起こして後三年の役が起きます。ここで出陣した源義家に与した清原清衡が安倍氏を滅ぼして藤原清衡と改名し、平泉に拠点を置き、奥州藤原氏として1世紀の間在地勢力の間に君臨します。
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留守氏、次いで大崎氏が宮城県に君臨
鎌倉時代初期になると、奥州藤原氏は鎌倉に幕府を開いた源頼朝により討伐され滅亡。この時、頼朝に従った葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士が守護、地頭として現在の宮城県域に多く入植しました。
そして関東武士の中で、多賀城の留守所長官として陸奥国留守職に任じられたのが、伊沢家景で、家景の子孫は留守氏を名乗るようになり、代々が陸奥留守職に任じられます。
室町時代に入ると、南北朝の争いで宮城県の在地勢力も分裂しますが、足利一族の斯波氏が奥州探題を称して多賀城に入城すると争いは沈静化しました。
やがて斯波氏の傍流である大崎氏が奥州管領職に就任。しかし、元中9年(1392年)に奥州・出羽両国が鎌倉幕府の直轄地となり、大崎氏の奥州管領権は制限されます。大崎氏は奥州の抑えとして応永年(1400年)には奥州探題となりました。
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戦国時代 伊達氏が宮城県を制す
戦国時代になると、南東北の奥羽山脈西側に連なる盆地郡都に拠点を置く在地武将の勢力が強くなり大崎氏の勢力が後退。在地勢力で抗争が繰り返された末、最終的に伊達郡・信夫郡、置賜郡を本拠地とする伊達氏が勝利しました。
伊達氏は源頼朝の奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられた関東武士の末裔で鎌倉時代から伊達郡を中心に勢力を拡大し、奥州の覇者になります。
天文の乱で、一時伊達氏は衰退しますが、安土桃山時代になると名将伊達政宗が登場。常陸の佐竹義重や会津の蘆名氏に勝利して領土を拡大しました。しかし、その頃には東北以南で戦国時代はほぼ終わり、天下人豊臣秀吉が関東征伐の爪を研いでいたのです。
政宗は最初、秀吉の小田原攻め参陣や惣無事令を無視しますが、結局は圧力に屈して軍門に降りました。その代償は大きく、秀吉の仕置により征服した会津地方などを奪い取られます。
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伊達政宗、葛西大崎一揆を扇動しやらかす
ただ、秀吉の強引な奥州仕置で改易の憂き目にあった葛西氏や大崎氏の旧臣は納得せず、不満を蓄積、政宗はこれを密かに扇動し葛西大崎一揆を起こさせます。
ところが、政宗の扇動は蒲生氏郷に露見。政宗は秀吉から一揆鎮圧を命じられました。
一揆の鎮圧後、秀吉は政宗の領地をそれまでの山形県南部、福島県、宮城県南部から宮城県及び岩手県南部と移し北へ追いやります。
政宗はやむなく玉造郡の岩出山城を居城とし新しい領地の統治にあたりました。秀吉が死ぬと伊達政宗は徳川家康と親交を結び、関ケ原の戦いでも東軍に参加。伊達氏は戦国時代を生き残る事に成功します。
政宗は天然の要害の青葉山に築城し仙台城を構えて居城とし、堂々62万石の大大名として東北で圧倒的な存在感を放ちました。その後も政宗は遣欧使節を派遣しスペインと貿易&軍事同盟を結ぼうとするなど、天下への野心を捨てませんでしたが、徳川の政治体制が揺るがない事を悟ると諦めます。
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奥羽越列藩同盟の盟主となるが…
伊達氏は奥州の名門として宇和島に分家の伊達氏を出すなど重んじられます。幕末になると、外国船が出没する蝦夷ヶ島の警備を担うなどしますが、幕末にはこれという人材が出る事もなく、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主となります。
当初の計画では孝明天皇の弟輪王寺宮を擁立し東武皇帝として即位させ、仙台藩主伊達義邦が征夷大将軍に任命される計画だったようですが、その前に新政府軍に降伏しました。
賊軍となった仙台藩は石高を半分以下に減らされ、家臣を養えなくなった伊達氏は蝦夷地の入植に着手し、明治政府と共同で札幌市を開拓するなど北海道の歴史に名前を残します。
明治政府が誕生すると、宮城県は中央集権体制に組み込まれますが、東北支配の政治拠点として重視された仙台市を中心に発展。
大日本帝国陸軍第二師団が置かれ、東北帝国大学など高等教育機関が設立されます。仙台藩を前身とする仙台県は廃藩置県後も存続し、旧領である登米県、角田県の編入後に宮城県に改称し、磐前県、磐井県との管轄区域の変更を経て現在の県域が確定しました。
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戦国時代ライターkawausoの一言
宮城県の戦国時代と言えば、何と言っても奥州の覇者伊達政宗を外す事は出来ないですね。東北の戦国大名では断トツに領土を広げた政宗ですが、小田原征伐では豊臣秀吉に逆らい、奥州仕置で折角奪った会津を削られてしまう挫折を味わいました。
さらに懲りずに葛西大崎一揆を焚きつけたのがバレ、秀吉に一揆鎮圧を命じられた上に領地を北に移動させられた悪ガキな政宗ですが、それでも改易されない辺りは、秀吉も家康も奥州は政宗でないと纏まらないと一目置いていたのでしょうか?
参考文献:47都道府県の歴史と地理がわかる事典 GS幻冬舎新書
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