徳川幕府を倒した明治新政府にとって最大の急務は富国強兵でした。その為に必要なのが、貨幣制度の整備であり民間に経営資金を融資して産業を奨励する銀行の設立だったのです。
明治6年国立銀行条例の制定により、日本には民間資本による国立銀行が設立されるのですが、初期の銀行は紙幣を刷り放題だったってご存知ですか?
この記事の目次
民間資本の国立銀行の役割をズバリ!
では、最初に民間資本の国立銀行の役割についてズバリ解説します。
1 | 明治5年、国立銀行条例施行。 |
2 | 明治6年、民間資本の第一国立銀行から第四国立銀行が開業。 |
3 | 国立銀行は資本金の60%まで不換紙幣を発行できたが 40%は兌換紙幣と交換できる金貨の準備を義務付けられ経営不振。 |
4 | 明治10年に政府は条例を改正。 資本金の80%まで不換紙幣を刷る事を許可 |
5 | 条例改正で日本全国に153の民間国立銀行が開業。 |
6 | 国立銀行の不換紙幣濫発で急激なインフレが発生。 |
7 | 明治15年日本銀行が兌換紙幣発行業務を開始。 国立銀行は不換紙幣を刷れなくなる |
以上が、この記事のザックリした内容です。
ここからは、より詳しい内容について解説していきましょう。
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江戸の三貨制を否定した明治政府は三貨制に回帰
江戸時代の日本の貨幣制度は、金貨・銀貨・銭貨の三貨制でした。この三貨制は複雑で諸外国から不評であった事から明治政府は明治元年より太政官札、民部省札を発行して三貨制を否定していきます。
しかし官札は三貨制に慣れた庶民に不評で流通しませんでした。庶民感覚としては薄っぺらい太政官札は過去の藩札と同じように見えており、貴金属で有難みのある小判や一分銀の方を信用したのでしょう。
これを受けて政府は方針を180度転換し、明治4年「新貨条例」を公布。十進法に基づき円・銭・厘の単位を導入し西洋の鋳造技術を使い、新しく金貨・銀貨・銅貨を発行していきます。同時に政府は諸藩が発行していた藩札を回収し貨幣の一元化を進めていきました。
また、明治政府は国内産業を活発化させる為、伊藤博文や渋沢栄一が中心となり、明治5年に国立銀行条例を制定。翌年から民間資本による銀行が各地に設立されていくのです。
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明治6年第一「国立」銀行が開業
伊藤博文や渋沢栄一の尽力による国立銀行条例制定により、第一国立銀行をはじめ、日本各地に4つの民間銀行が誕生します。
あれ?国立なのに民間銀行ってどういう事と思いますが、実際に4行は民間資本でした。そして、この4行は資本金の60%までの不換紙幣発行が認められていたのです。つまり、4行は自分の判断で紙幣を刷る事が可能だったんですね。
ところが、最初の4行はすぐに経営に行きづまっていきました。理由は、資本金の40%は兌換紙幣と交換できる金貨を準備する必要があったからです。これを受けて明治政府は4年後に法改正し、金貨との兌換を不要とし、資本金の80%まで不換紙幣を発行できるとしたので銀行の設立は相次ぎ、全国に153の国立銀行が開業します。
国立銀行が紙幣を刷りまくり激しいインフレ!
153の国立銀行はこうして不換紙幣を刷りまくり、企業融資を拡大していきました。明治10年の西南戦争もあり、銀行は戦費調達の為に不換紙幣を濫発。その結果、日本経済は激しいインフレへと突入、物価は高騰し国民生活は苦しくなります。
しかし、中央銀行を持たない明治政府は不換紙幣の統制を図る事が出来ず、インフレは、なかなか沈静化しませんでした。
明治14年大蔵卿に就任した松方正義は濫発された不換紙幣の整理を図るために正貨兌換の銀行券を発行する中央銀行を設立し、通貨価値の安定を図るとともに中央銀行を中核とした銀行制度を整備し、近代的信用制度を確立する事が不可欠と提議します。
松方の提議は通り、明治15年6月に日本銀行条例が制定され、同年10月10日、日本銀行が業務を開始するに至りました。松方は比較的に余裕のあった銀を元手に銀本位制を導入、資金調達の為、たばこ税、酒税を増税し、軍事費以外の政府歳出を削減。同時に官営の優良企業を政商に払い下げるなどして財源を確保。
不換紙幣を焼却処分して紙幣量を減らしインフレを沈静化してデフレへと誘導します。こうして153の国立銀行は不換紙幣発行を禁止され、以後は個人や企業からお金を預かり融資する、現在の銀行形態に業務をシフトさせていきました。
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デフォルト寸前の明治政府
明治政府が金貨の裏付けのない不換紙幣濫発を容認したのは、政権が樹立したばかりで財政基盤が不安定だったからです。
廃藩置県で領地を返還した300諸藩の大名への生活費の支払いや、失業した士族への金禄の発給。徳川幕府から引き継いだ諸外国への賠償金支払い義務など、明治政府の国庫は火の車で、土地に税金を課して徴収する地租改正も軌道に乗ったとは言い難い状態でした。
この状態に、西南戦争の勃発が加わり、戦費の調達に迫られた明治政府は、このままでは激しいインフレになると知りながら国立銀行の不換紙幣濫発を制止出来ませんでした。
松方正義が日本銀行を設立して不換紙幣を廃棄し銀本位制を採用して貨幣の信用を回復しなければ破滅的なインフレで日本政府自体が債務不履行状態になったかも知れませんね。
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松方デフレが日本の資本主義の土台を築いた
松方デフレは一方で繭や米の価格など農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招きます。このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない農民は農地を売却して都市に流入し資本家の労働力になったり、自作農から小作農へ転落しました。
また手放された土地が地主や高利貸しへと集積され、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長したことも相まって、松方デフレは資本家と労働者層の分離という日本資本主義の下地を作る事に貢献したとも言えますね。
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日本史ライターkawausoの一言
民間資本による国立銀行は、資金を必要としていた企業に不換紙幣を大量に融資する事により、激しいインフレを伴うものの、富国強兵に必要な経済の土台を築くのに貢献したと言えると思います。
ちなみに、番号を振られた国立銀行の中には、第四銀行や十六銀行等、現在でも営業を続けている銀行もあります。もちろん、もう紙幣は刷っていませんけどね。
参考文献:経済・戦争・宗教から見る 教養の日本史 西東社
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