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武田騎馬隊は竜騎兵と化していた?その臨機応変な対応の理由とは?

10/07/2021


武田信玄

 

平安や鎌倉時代まで、戦場の主力は大鎧(おおよろい)で武装して騎乗しお互いに矢を放ちあう騎馬武者でした。しかし、南北朝以後、合戦が歩兵を主体とした集団戦に変化すると騎兵の意味合いも大きく変化します。

 

それは武田騎馬軍団として知られる武田家でも同じでした。

今回は武田騎馬隊が竜騎兵(りゅうきへい)と化していたというタイトルで、騎馬隊の役割の変化を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武田騎馬隊は竜騎兵と化していた?ザックリ!

忙しい方にざっくり解答01 kawausoさん

 

では、最初に忙しい読者の皆さんの為に、この記事の内容をザックリ説明します。

 

1 歩兵の武器が長刀(なぎなた)の時代、騎兵は歩兵に対し優位だった。
2 刺突(しとつ)兵器である槍が南北朝期に登場すると、
2人の槍兵がいれば騎兵1人を仕留めるのは難しくなく、
騎兵の歩兵への優位が崩れた
3 甲陽軍鑑では原虎胤(はらとらたね)が自分を尾行してきた敵騎兵4人を
下馬して槍で突き殺している
4 山本勘助(やまもとかんすけ)は騎兵を体当たりではなく、
戦場までの移動手段として使う事を信玄に提案
これは西洋の騎馬で目的地に移動する
銃歩兵(竜騎兵)に似ていた。
5 武田軍は多くが徒歩で槍を武器に一番槍を目指して
敵陣に錐状に突撃する戦法に変わった
6 三方ヶ原の戦いで信玄は騎兵ではなく
魚鱗陣(ぎょりんじん)で織田・徳川連合軍の鶴翼陣(かくよくじん)を突き崩し勝利した。

 

以上で、ザックリ解説は終了です。ここからはもう少し詳しく解説していきます。

 

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騎兵が廃れた理由は槍の誕生

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

日本において騎兵の歩兵に対する優位が(くつがえ)った背景には槍の誕生がありました。槍が誕生する以前の歩兵の装備は長刀で、これでは馬を()いで倒すという事が不可能だったのです。

 

槍が登場する以前の騎兵は歩兵に対して優位で、馬体を歩兵にぶつけてつきとばしたり、同じ騎兵でも疲労が濃いとみれば突撃して馬ごとひっくり返し落馬した所でトドメを刺していました。

 

このような描写は平家物語によく見られます。

 

足軽a-モブ(兵士)

 

しかし、時代が騎馬の時代から歩兵の集団戦術に移行し、戦国時代に槍が開発されると槍持ちの歩兵が2名いれば騎馬武者を討ち取る事が可能になります。刺突兵器である槍は、出来るだけ水平に構えて石突(いしづき)を地面に突き立てる事で、力を入れずとも突進する馬を体重で串刺しにする事が出来たのです。

 

編集長が7分で解説!日本史を変えた槍について

 

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はじめての戦国時代

 

下馬して敵騎兵を刺殺した原虎胤

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甲陽軍鑑には、天文16年、当時50歳だった原虎胤(はらとらたね)が送り足軽の任務について戻る途中、敵の騎兵4人につけられている事に気づき、ある程度距離が近づいた所で下馬して槍を振るい、騎兵4人を突き殺したと記録されています。

 

原虎胤は馬上で槍を振るうより地面に下りて足場の堅い所で槍を振るう事を選び、同時にたった1人の原虎胤に4人の騎兵は為す術がなかった事が分かります。騎兵をある程度離れた場所から突き殺せる槍の誕生は、歩兵に優位した騎兵の存在価値を低下させていました。

 

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機動力としての騎兵

武田騎馬軍団 馬場信春

 

1人の原虎胤に対して4人の騎兵が刺殺されたぐらいなので、足軽槍隊が整列して槍を構えて槍襖を造ると、もはや危険を冒してまで、これに挑みかかろうとする騎兵はいませんでした。

 

戦国時代後期に鉄砲が普及すると騎兵の天敵は鉄砲足軽となり、槍兵の役割は低下しますが、それでも騎兵の突撃を回避する抑止力としては活用されます。

 

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

この状況では騎兵に突撃兵器としての役割を期待する事は出来なくなりました。そして、突撃が出来ないなら徒歩よりは遥かに速い機動力を活かして戦場に逸早く兵士を到着させ、馬を鉄砲の弾が届かない位置まで下げる方法が考案されます。

 

これが騎馬の竜騎兵化だったのです。

 

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山本勘助。武田騎馬隊竜騎兵化を提案

真田丸 武田信玄

 

山鹿素行(やまがそこう)武経全書(ぶけいぜんしょ)によると、天文12年(1543年以降)武田家に侍大将として迎えられていた山本勘助が馬を退かせ、馬を遠ざける事を信玄に提案し、これを採用した武田軍は他家よりも有利に戦えるようになったと言います。

 

この頃から武田家では、武者も足軽大将も戦場間近になると、下馬して口取りの中間に馬を預けて、弾が飛んでこない後方に退却させ、自分達は槍を振るって敵陣に突撃して行ったわけです。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

徒歩になった武田の将兵は、何よりも一番槍を狙いました。誰よりも先に敵陣に入り名のある将の首を獲る、それが一番の恩賞として讃えられたからです。そして、功名と野心に満ちた勇敢な武者が敵陣を突き破って背後に回り込むと、包囲殲滅(ほういせんめつ)を恐れた敵兵は浮足だち潰走してしまう事が多くありました。

 

 

武田氏と違い、周辺の大名は騎馬武者と足軽が混在していたので、武田家は一番槍を掲げる事で連戦連勝できたという事でしょう。しかし、もちろん他家も武田家を真似て馬を後方に下げるようになり、関東の戦場では馬があまり戦場にいないというのが当たり前になっていきました。

 

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三方ヶ原で騎兵を使わない信玄

徳川家康をボコボコにする武田信玄

 

元亀(げんき)3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、浜松城に籠城した徳川家康と佐久間信盛(さくまのぶもり)に対し、信玄は挑発するように城を素通りしていき、怒った家康が佐久間信盛の軍勢と追撃を掛けると、それを見越していた信玄は魚鱗の陣で待ち構え撃破したとされます。

 

三方ヶ原は地名からして、平地で騎馬の展開はしやすかったと考えられますが、信玄は騎兵の突撃をせずに魚鱗陣という歩兵の戦術で待ち受け、慌てて鶴翼の陣で迎撃した織田・徳川連合軍を突き破り2000名もの死傷者を出させました。

 

武田信玄と徳川家康

 

逆に武田の死傷者は諸説ありますが200名とも言われ織田・徳川連合軍の1/10です。この時には包囲殲滅に近い状態が発生したのではないかと推測します。信玄は騎兵の突撃を捨て機動力のみを使う事で、逆に騎兵と歩兵が混合する敵よりも合戦において優位に立ったのです。武田騎馬軍団の首領が、騎兵の突撃を捨て逆に勝利を掴んだとは皮肉な感じですね。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

槍足軽に圧倒された騎兵ですが、騎兵による戦場の蹂躙(じゅうりん)はゼロになったわけではありません。騎兵の天敵である槍足軽が崩れたり、鉄砲足軽がちりぢりになるとそこに馬を突撃させてさらに敵を混乱に陥れる事はありました。

 

それらの判断は臨機応変になされ、状況によって騎兵の出番はあったりなかったりしたのです。

 

参考文献:武器が語る日本史  徳間書店

 

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武田信玄

 

 

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