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文覚(遠藤盛遠)とはどんな人?アタオカ坊主は偉大な功績を上げていた?【鎌倉殿の13人】

06/03/2022


文覚

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」その登場人物でうさん臭さにおいて源行家(みなもとのゆきいえ)とトップを争うのが市川猿之助(いちかわえんのすけ)の演じる文覚(もんがく)でしょう。

 

お父さんの物だと嘘をつき源頼朝に髑髏を買わせようとする文覚

 

薄汚い坊主の姿で頼朝の前に出現し、頼朝(よりとも)の父、義朝(よしとも)のモノと称する髑髏(どくろ)を売りつけてきて頼朝に二度と来るなと追い返されていました。しかし、史実の文覚はただうさん臭いだけではなく偉大な功績を挙げた人でした。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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元は摂津源氏渡辺党の武士だった文覚

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

文覚は摂津源氏傘下(せっつげんじさんか)の武士団、渡辺党・遠藤氏の出身のサムライで北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(むねこないしんのう)上西門院(じょうさいもんいん))に仕えていましたが19歳で出家し真言宗の僧侶、文覚と名乗ります。

 

その後、京都高雄山神御寺(たかおざんしんごじ)の再興を後白河法皇(ごしらかわほうおう)強訴(ごうそ)したので疎まれ渡辺党の棟梁、源頼政(みなもとのよりまさ)の知行国だった伊豆に流され、近藤四郎国高(こんどうしろうくにたか)に預けられて奈古屋寺(なこやじ)に住み同じく伊豆国蛭ヶ島(いずのくにひるがしま)に流されていた頼朝と交流を持ちました。

 

 

 

文覚の人生は、ここから大きく変化していきます。頼朝が挙兵して平家や奥州藤原氏を討伐し、権力を掌握していく過程で文覚も見いだされ後白河法皇の庇護(ひご)も受けるようになったのです。

 

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はじめての平安時代

 

 

出家の経緯

源平盛衰記 書類

 

 

源平盛衰記(げんぺいせいすいき)によると、文覚の出家の原因は以下のようなものです。

 

京都御所

 

上西門院に仕える女房に袈裟御前(けさごぜん)という絶世の美女がいた。

小野小町

 

当時、北面の武士として上西門院を守っていた遠藤盛遠(えんどうのもりとお)は、その美しさと気品に心を奪われ己のものにしたいと情欲を持ったが思いを遂げる事のないまま、袈裟御前は同僚の源渡(みなもとのわたる)に嫁ぐことになった。

 

しかし盛遠は情欲を捨てられず人妻になった袈裟御前に執拗(しつよう)に言い寄った。袈裟御前は、自分はすでに人妻であるからと丁重に断り続けるが、盛遠の執心はいよいよ募るばかりで、ついには「思いを遂げられぬならば、そなたの母を殺し拙者も腹を切る」と脅迫めいた事を言い出した。

 

困った袈裟御前は一計を案じて、盛遠にこのように言った。

「そのように私を想っておられるのなら夫を殺してください、そうすればあなたと一緒になりましょう」

 

盛遠は承知し、袈裟御前に言われた通り、夜中に屋敷に忍び込み寝入っている同僚、源渡の首に太刀を振り下ろした。しかし明かりを灯して落とした首を見てみると、それは渡の首ではなく男装した袈裟御前の首であった。

 

彼女は夫や母を守り、同時に貞節を貫こうと考え、自分が盛遠に殺される事で幕引きを図ったのである。己の手で愛した袈裟御前の首を切った盛遠は半狂乱となり首を抱えて屋敷を飛び出し、何日間も鞍馬(くらま)の山奥をさまよい、後悔の念に駆られた末に俗世を捨て名も文覚と改めたのだ。

 

この話は平家物語のフィクションのようですが、アタオカ坊主、文覚らしい逸話です。

 

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源義経

 

 

文覚の功績

各地の寺院を勧請し建物を修復する文覚

 

文覚は頼朝や後白河法皇の庇護を受けると、神護寺(しんごじ)東寺(とうじ)高野山大塔(こうやさんだいとう)東大寺(とうだいじ)江ノ島弁財天(えのしまべんざいてん)など各地の寺院を勧請し、所領を回復し建物を修復するなどしました。また頼朝のもとへ弟子を派遣して平維盛(たいらのこれもり)遺児(いじ)六代(ろくだい)の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護しています。このように文覚は、ただのアタオカ坊主ではなく、戦乱で荒れ果てた仏閣を立て直した人でもあったのです。

 

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源頼朝

 

 

アタオカな側面

海の嵐を鎮める巨大な法力を持っていた文覚

 

しかし、文覚の一番の特徴は、アタオカとさえ言える行動力でしょう。

 

同時代に藤原兼実(ふじわらのかねざね)が記した日記、玉葉(ぎょくよう)によると文覚は頼朝の命令で木曾義仲(きそのよしなか)の元へいき、平家追討が進んでいない事や京中での乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を批判させたそうです。これにしても、一歩間違えば首が飛んでしまう事ですが、文覚はそのアタオカ部分で、これを成し遂げたのでしょう。

 

 

吉田兼見

 

また、同時代の天台宗僧侶だった慈円(じえん)の書いた「愚管抄(ぐかんしょう)」によると文覚はアクティブだが学問がなく、あさましい性格をしていて、人の悪口を言いふらし天狗を祭るなどの奇行をしていると書いています。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

さらに、鎌倉末期の歌人頓阿(とんあ)が書いた井蛙抄(せいあしょう)によると、文覚は同時代の僧侶、西行(さいぎょう)を憎んでいて「世を(はかな)んで遁世したからには仏道三昧に生きるべきなのに、和歌なんぞに手を出して大先生と崇められ、まんざらでもない顔をしている。あんな奴は許せない!今度顔を見たら、どこだろうと頭を勝ち割ってやる」と坊主とは思えない暴言を吐いたのだそうです。

 

ここには、歌人として大成した西行に対する嫉妬(しっと)が入っているような気もしますが、なんにしても、悟りとは無縁の欲望全開な文覚の一面が垣間見れます。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

超人としての側面

胡散臭いが数々の寺を建て直した文覚の功績

 

一方で平家物語の文覚は、海の嵐を(しず)める巨大な法力を持つ修験者(しゅげんしゃ)として描かれ、頼朝に父、義朝の髑髏を見せて決起を促し超人的歩行速度で日本各地を移動したり、下手に逆らうと祟りを起こす超能力者として描かれます。

 

平家物語 書類

 

大河の髑髏うんぬんは、この平家物語の逸話から取られたものなんでしょうね。

 

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三左衛門事件に巻き込まれ、その後死去

朝廷(天皇)

 

そんな文覚ですが、源頼朝急逝(きゅうせい)直後の正治元年(1199年)2月に三左衛門(さんざえもん)事件に巻き込まれます。

 

これは、一条能保(いちじょうのよしやす)高能父子(たかよし・ふし)の遺臣が頼朝と結びつき権勢を振るっていた土御門通親(つちみかどのみちちか)を殺害し権力を奪い返そうとした事件で、首謀者の後藤基清(ごとうのもときよ)中原政経(なかはらのまさつね)小野義成(おののよしなり)がいずれも左衛門尉(さえもんのじょう)だったので三左衛門事件と呼ばれます。

 

土御門通親は頼朝の権勢をかさにきて、自分の外孫を土御門天皇として即位させ、頼朝の急逝があったにもかかわらず、二代将軍頼家を左中将(さちゅうじょう)、自身の官位を右近衛大将(うこんえのだいしょう)に上昇させようとするなど貴族からも幕府からも反感を買っていました。

 

公家同士の会議(モブ)

 

後藤基清、中原政経、小野義成は今ならば、幕府から見放され朝廷で敵が多い土御門通親を排除できると屋敷に武士を集め襲撃を準備しますが、鎌倉幕府が通親支持の姿勢を見せた事で計画が頓挫、捕らえられたのです。

 

 

謀反を企んだという罪で対馬に流された文覚

文覚は三左衛門一味に参画しており、検非違使(けびいし)に捕らえられて佐渡に流されます。その後土御門通親が急死した事で京都に戻りますが、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に対し、謀反(むほん)を企んだという罪で対馬(つしま)に流される事になり、その途中鎮西(ちんぜい)で病死しました。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は怪僧文覚について解説してみました。

 

平家物語 書類

 

平家物語や源平盛衰記において神通力を持っていたり、他人の妻に横恋慕(よこれんぼ)した上に、その首を切り落としてしまうなど、劇的かつ大幅に脚色された文覚ですが、同時代の史料でも、京都を抑えた朝日将軍木曾義仲を叱りつけ尋問するような事をしていたり、人の好き嫌いが激しく、和歌の道で高名な僧侶、西行の頭を勝ち割ると発言するなど、アタオカな面も強く持っているかのように思います。

 

しかし、愚管抄で慈円が指摘したように、その狂気が常人の及ばない行動力として噴出したからこそ、文覚はいくつもの寺を建て直すことが出来たのでしょう。文覚は源平争乱の時代があってこそ輝いたアタオカ僧侶だったのです。

 

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北条義時

 

 

 

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