平岩親吉は徳川家康の家臣です。それもただの家臣ではなく同じ年生まれで子供の頃に今川家に人質に出された家康に小姓として随行し、哀しみや苦しみを共に乗り越えた親友でした。家康は親吉を深く信頼し、嫡男信康の養育を任せ、また他人には頼めない汚れ仕事を頼むなどしています。今回は家康に信じられ、その光と影を見てきた平岩親吉を紹介しましょう。
この記事の目次
家康の同級生として誕生
平岩親吉は1542年平岩親重の次男として誕生します。たまたま家康と同級生だったことから幼少期から家康の小姓として仕え今川家へ人質に出された家康に同行します。親吉は家康の信頼が厚いために、他人にはとても任せられない汚れ仕事も請け負いました。家康が三河で独立した後、武田に内通したと信長に疑いをかけられた家康の伯父、水野信元父子を殺害したのも親吉です。
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家康の嫡男、信康の傅役となる
親吉は桶狭間の戦い後、家康が岡崎城で独立すると三河統一戦争や遠江平定で戦功をあげ続け、家康の嫡男である信康の傅役を務めました。信康は織田信長の娘、徳姫を正室に迎えますが男子に恵まれない事から信康が側室を置き、その為に夫婦仲が険悪になります。
また信康は勇猛果敢な武将でしたが、残忍で傲岸な面もあり、信長さえ軽んじるほどで家康との関係も悪化していきました。
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信康の死に衝撃を受けて謹慎する
1579年、信長より「信康を何とかせよ」と命令を受けた家康は、信康を殺害しようとしますが、親吉は「信康様がこうなったのは私の不徳なので私の首を斬って信長公に送って下さい」と頼みます。しかし家康は承知せず信康を自害させ、責任を感じた親吉は自ら蟄居謹慎します。
1582年、本能寺の変が勃発すると、親吉は家康に呼び出されて甲斐郡代として武田の遺臣を懐柔し国内経営に尽力。1590年の小田原征伐でも手柄を立て、関東に拠点を移した家康に従い厩橋に3000石を与えられます。
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家康の9男、徳川義直の守役となる
関ケ原の戦いの後、親吉は甲斐に戻って甲府63000石を与えられ甲府城に入り、徳川家康の9男、徳川義直が甲斐25万石の大名になると幼少な上に駿府にいる義直の守役・代理として甲斐を統治。1607年に義直が尾張藩主に転じると義直の附き家老として尾張に移動し藩の政治を見ると共に犬山藩主として12万3000石を領有しました。
1611年、親吉は70歳で名古屋城二の丸御殿で死去します。親吉には子供がなく遺言には犬山藩領は徳川義直の領地に加えて欲しいと書いてあったそうです。
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親吉死後、平岩家は断絶する
しかし、平岩家断絶を惜しんだ家康は8男の松平仙千代を養子にして、平岩家を継がせようとしますが、仙千代は夭折。その後も親吉の隠し子がいるとの噂を聞くと探し出して藩主にしようとしますが、その子の母親が「親吉の子ではない」と告げたため、とうとう断念しました。
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平岩親吉の性格
平岩親吉の性格は公平無私でいたって正直でした。伏見城が完成した時の事、豊臣秀吉は使者を使わして、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、平岩親吉に「家康には内緒」として黄金百枚ずつを与えました。
この時、4人の中で本多忠勝と井伊直政は家康に報告せずに黙って受け取り、榊原康政は家康に「黄金百枚を太閤様より頂きましたが、どうすればいいか?」と報告。家康に「有難く頂戴しておけ」と了解を得ました。一方で親吉は「私は主君から十分に報酬を得ていて、これ以上禄を貪るような事は出来ない」と頑として受け取りを拒否したそうです。
また、別の話では、親吉の弟とまだ若輩だった榊原康政が喧嘩を起こした事があり、親吉の弟が軽い傷を負いました。この時、喧嘩を裁いたのは親吉でしたが「康政は見どころがある武士で、後々は主君の役に立つだろう」としてお咎めなしとし、弟については「喧嘩して手傷を負うような武芸ならモノの役に立たない。取り立てを受けて主君に迷惑をかける前に武芸を止めさせよ」として屋敷に押し込みの処分を出しました。
以後も親吉は、康政の有能さをことあるごとに家康に伝えたので康政は大いに出世したという事です。
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毒饅頭の元祖
一方で親吉は家康の汚れ仕事を引き受けた経緯から毒殺の実行犯とも噂されました。1611年、豊臣秀頼と二条城で会見した家康は、秀頼の器量を危険とみなし、接待役を勤めていた親吉に秀頼毒殺を命じます。
親吉は饅頭の中に遅効性の毒を針を利用して注入し、秀頼毒殺を狙いますが、秀頼を護衛してやってきていた加藤清正が毒饅頭の陰謀を見抜いて、全部食べてしまい失敗。それからまもなく清正は急死しました。
しかし、これはいくらなんでも真実とは思えず、後世、加藤清正の急死を美化すると同時に、秀頼に毒を盛ろうとした家康の陰険さを強調しようと造られたデマだと思われます。
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日本史ライターkawausoの独り言
徳川家康は、祖父が家臣に殺された経緯から、あまり家臣を信じず無口であり喜怒哀楽を表に出す事が少ない人物だったそうです。そんな中で平岩親吉は家康の息子の養育を頼まれたり、他人には頼めない汚れ仕事を引き受けるなど、家康が心を開く事ができる数少ない家臣だったのでしょう。だからこそ家康は親吉の家系が絶える事を惜しみ、手を尽くして存続させようと必死になったのでしょうね。
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