鳥居忠吉とはどんな人?今川に搾取されつつ家康が独立する資金を蓄えたしっかり者

16/01/2023


 

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鳥居忠吉

 

鳥居忠吉は家康の祖父の松平清康の時代から仕えた三河武士です。忠吉はただの武士ではなく、商人としても財をなしていて岡崎城で今川氏の搾取を受けながらも少しずつ富を蓄えていき今川義元の死後に家康が独立する資金を用意した人物であるとされます。今回は忍耐と忠義2つを備えた三河武士鳥居忠吉を解説しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鳥居忠明の子として誕生

名古屋城

 

鳥居忠吉は鳥居忠明の子として誕生します。生没年は不明ですが元亀年間に死去した時に80歳を過ぎていたそうなので文明から明応年間の生まれと考えられます。忠吉の家は純粋な武士ではなく、矢作川を利用した水運で財産を築いた兼業武士でした。松平家に仕えたのは、松平清康が岡崎城に進出した頃と考えられ、岡崎譜代と呼ばれた家臣層に位置づけられています。

 

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松平清康に仕える

松平広忠

 

しかし、忠吉が仕えた清康は尾張の織田信秀と戦っている最中に家臣に暗殺されました。清康の息子、広忠はわずか10歳で、松平家は清康の弟である松平信定に乗っ取られ岡崎城も信定の支配下にはいります。

 

今川義元の右腕として手腕を発揮する太原雪斎

 

 

広忠は最初、伊勢の吉良氏を頼って逃亡し、その後は駿河の戦国大名今川義元の保護下に入り、松平信定が死ぬと今川家の後ろ盾を背景に本拠地岡崎城を取り戻しました。こうして、忠吉は清康に続いて広忠に仕えるのですが、広忠は今川家の援助を受けるために幼い息子竹千代(家康)を駿府に人質に出します。

 

人質として今川家で暮らしていた幼き徳川家康(松平元康)

 

そうまでして松平家を維持しようとする広忠ですが1549年には23歳の若さで病死しました。後継者の竹千代は駿河に預けられたままであり、今川義元は代わりに城代を岡崎城に派遣しました。

 

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今川家に収奪される三河

悪い顔をしている今川義元

 

基本的に、岡崎の行政は鳥居忠吉と阿部定吉の2人の実務に任されていましたが収穫物の取り分は今川家が多く、松平家は搾取されている状態に苦しみます。それでも忠吉は、いつか家康が元服して岡崎城の当主となる日を夢見て、毎日僅かずつ貯蓄に励んでいました。

 

忠吉の頑張りぶりは岡崎の三河武士団に影響を与え、貧しさに苦しんでも主君の為に合戦では命を惜しまない三河武士の精神が誕生したとされます。

 

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岡崎に帰った家康に資金を提供

自分の鎧が目立ちすぎて怯える徳川家康

 

松平元康となった家康は19歳で桶狭間の戦いに初陣し、今川軍の先遣隊として大高城に兵糧を運び込む仕事をします。ところが途中で今川義元が織田信長に討たれる事件が発生。家康は命からがら岡崎城に逃げ戻り、これからどうしようと途方に暮れました。

兵糧を運ぶ兵士

 

その時、鳥居忠吉は家康を秘密の蔵に案内し、今川氏の目を盗んで蓄えた財産を見せ、家康に感謝されたそうです。

 

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岡崎城で隠居する

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

その頃、鳥居忠吉はかなり高齢になっていて岡崎城で留守を守る事になり、家康の戦いには、三男の鳥居元忠が従軍して、父に劣らぬ手柄を立てる事になりました。忠吉の長男、忠宗はそれ以前に松平家に仕官して戦死していて、次男は仏門に入っていたようです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は徳川家康が戦国大名として独立する資金を確保した財政面の忠臣、鳥居忠吉を解説しました。武芸に秀でた武士は沢山いますが、財政面に強い武士は得難く、その意味で忠吉は家康に取って貴重な人材だったんだろうと思います。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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