2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」です。今回の大河でも家康を翻弄する役割の織田信長ですが、そもそも織田家はどうやって戦国大名にのし上がったのでしょうか?今回は、桶狭間の戦い直前までの織田家の歴史を3分でサックリ解説します。
この記事の目次
南北朝期、越前守護、斯波氏の代官となる
織田家の発祥地は越前国織田荘にある劔神社です。
1333年建武の新政により斯波高経が越前国の守護に任命されると越前国人だった織田氏も甲斐氏や朝倉氏と共に守護代となりました。斯波氏は1400年に尾張守護、1405年に遠江守護をそれぞれ加えられます。すると執事の甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任、織田氏は越前を離れ尾張守護代を世襲します。
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斯波氏の弱体化で勢力拡大
織田氏は伊勢守を称し織田伊勢守家と呼ばれ、主の斯波氏と京都で生活。尾張には在国の守護代理として大和守家を称する織田大和守家を配置していたようです。斯波氏は8代目、9代目と短命の当主が続き実権は執権の甲斐氏や織田氏、朝倉氏のような重臣と斯波氏の分家である大野氏が握ってゆきます。
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伊勢守家と大和守家で抗争勃発
応仁の乱勃発当初、尾張では守護代の織田敏広が主君の斯波義廉を擁して西軍についていました。しかし乱終結後、東軍についた守護代理、織田敏定が9代将軍足利義尚に正式な守護代と認められ、織田敏広と斯波義廉は討伐を受け本拠地の清須城を出ていきます。
追われた織田敏広は美濃守護代斎藤妙椿を味方にして清須城を包囲。結局1479年織田敏広と斎藤妙椿は幕府の和睦勧告を受け入れ、尾張を上四郡と下四郡で分割統治する事で和睦しました。
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清須三奉行、織田信定が台頭
16世紀に入ると、織田大和守家で清須織田家三家老の一つ織田弾正忠家の織田信定が台頭。海東郡津島に拠点を置き、交易を抑え海西郡や中島郡に勢力を伸ばします。信定の死後、家督を継いだ織田信秀は今川氏豊から那古野城を奪い取り、美濃では斎藤道三と三河では、知多郡の豪族水野信元を先導役に、松平清康や広忠、今川義元と抗争し要衝、安祥城を攻略します。
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織田信秀が今川家と和睦
信秀は晩年、小豆坂の戦いで松平広忠・今川義元連合軍に敗れ安祥城を奪い返されると人質交換の末に今川と和睦します。1551年織田信秀は感染症で急死。家督は嫡男の織田信長が継ぎますが、信秀は次男の信勝にも有能な家臣と所領を与えたので、両者の間で抗争が激しくなりました。
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信長、村木砦を落し今川家に宣戦布告
今川義元は織田家の内紛に乗じ、織田家の手先である水野信元を討つ為、知多郡に兵を出します。信元は織田家に救援を求め、信長は清須城を舅の斎藤道三の軍勢に任せる大胆な奇策で、今川氏の出城村木砦を攻略、信元を救出しました。
今川義元は、1554年に甲相模駿三国同盟を締結して、背後の憂いを取り除くと、本格的に知多郡を抑え、尾張を併合しようと3万人を動員して進軍を開始します。ここまでが桶狭間までの織田家の状況です。
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日本史ライターkawausoの独り言
織田家は南北朝期までは、名もなき土豪でしたが斯波氏が台頭すると、その守護代として尾張に君臨。応仁の乱後、斯波氏をしのぐ勢力を築きます。その後は、織田家内部の抗争が起きて、分家筋の織田弾正忠家が抜け出し、織田の本家と斯波氏を圧倒して尾張の支配者になっていくのです。
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