駿府攻略の不手際から北条氏康を敵に回し、おまけに駿府を奪いかえされ、背後に上杉、前面に北条氏という最悪の窮地に追い込まれた信玄ですが、ここから生涯最後の見事な神算鬼謀を見せ、武田家の力を巻き返していく事になります。
この記事の目次
上杉謙信と和睦し大宮城を落とす
永禄12年6月9日、北条氏政は上杉輝虎と越相同盟を締結します。同月、信玄は北条領に侵攻、伊豆・三島一帯を放火した上で進路を西に取り、御殿場口から駿河に侵攻し大宮城を攻撃、翌7月3日についに大宮城は開城しました。武田軍は富士郡を支配下に収め、7月下旬には、足利義昭の仲裁で上杉謙信との間で和睦が成立します。
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武蔵国に侵攻し小田原に火を放つ
背後の憂いが消えた信玄は、後北条氏の戦力を駿河から小田原へ集中させるため、同年8月下旬、甲府を出て信濃から碓氷峠を越えて武蔵へ入り、関東の北条領へ侵攻。鉢形城や滝山城を攻撃、小田原まで侵攻して火を放ち、同年10月4日に領国への帰還を開始します。帰還途中の三増峠で武田と北条は激突、武田が大勝利しました。こうして信玄は北条軍を関東に押し込む事に成功します。
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蒲原城を落し駿府を再占領する。
永禄12年11月9日、武田信玄は諏訪大社に戦勝祈願し再度駿河に向け出陣。北条氏康は、対抗して氏政、氏規、氏忠を韮山城へと派遣します。信玄は11月22日に大宮城に到着し西方へ移動を開始。12月6日には蒲原城を攻撃、北条方は多くの犠牲を出し蒲原城も落城しました。
蒲原城落城の影響は極めて大きく、12日には薩埵山の北条軍も自ら解散。大きな情勢変化により、北条氏は撤退を余儀なくされました。こうして、奇しくも最初の駿府落城から丸一年後、今川館に籠もる岡部正綱が降伏し信玄は駿府を再占領します。
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駿河西に侵攻し花沢城と徳一色城を落す
信玄は駿河で越年し、永禄13年正月には駿河山西に進出。同地域には花沢城と徳一色城があり、特に花沢は猛烈な抵抗を見せますが信玄自ら出陣し落城させました。その後徳一色城も放棄されたため、信玄は同城を手にします。信玄は2月中旬に清水に移動し水軍拠点の構築や海防施設構築を済ませ、同月下旬甲斐へ帰国します。
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武田信玄、深沢城を陥落させる
同年4月16日、信玄は富士口へ出陣、8月には駿東郡への攻勢を強めます。武田軍は8000の兵を率いて北条方の韮山城を攻撃しますが、北条氏規・氏忠ならびに清水康英や大藤政信といった重臣が撃退しました。元亀2年(1571年)に入ると信玄は、深沢城、興国寺城への攻撃を激化させます。深沢城は駿河侵攻以後に北条方が築城した城で、北条綱成や松田憲秀が派遣され、大宮城の落城後は河東地域の対武田軍の最前線でした。
一方の興国寺城は永禄12年正月に垪和氏続が城将として派遣されていました。元亀2年(1571年)正月10日に北条氏政は深沢城へ救援に赴きますが綱成は耐えきれず、深沢城は同16日に開城します。一方、興国寺城は氏続が防ぎ切りました。
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北条氏康死去、甲相同盟が復活する
元亀元年、10月3日に北条氏康が死去します。氏政は国内の動揺を抑える為武田氏との講和へ進み12月には甲相同盟が締結され、駿河侵攻は終息します。こうして信玄は駿河一国をほぼ領有しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
この間に、信玄と家康の間には、行き違いが繰り返されました。信玄が盟約を破り遠江に侵攻したり、家康も掛川城攻略が長引いた事で今川や北条と和睦するなどして、結果として徳川、今川、北条の三国同盟の締結に至ってしまうのです。
窮地に立った信玄でしたが、上杉謙信と和睦した後は軍神に相応しい神算鬼謀を駆使して、年若い北条氏政を圧倒し、北条氏を関東に押し込んで、駿府を再占領して戦いを有利に進め、北条氏康の死という幸運にも救われ、一度は断交した北条氏との関係も回復します。
さて、こうなると家康は北条氏と今川との盟約も無効となり、逆に駿河を領有し後顧の憂いが消えた信玄に押しまくられる事になります。かくして家康の優位は一転し、三方ヶ原の戦いのピンチへ向かってゆくのです。
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