大河ドラマ「どうする家康」第20話は岡崎クーデターです。ここで登場するのが毎熊克哉さんが演じる大岡弥四郎(大賀弥四郎)で、彼は岡崎城を丸々武田勝頼に寝返らせようとして失敗。捕らえられて首をノコギリでじわじわ切断される残酷な方法で殺されたと言われています。今回は大岡弥四郎について解説してみましょう。
この記事の目次
有能で勇気があった大岡弥四郎(大賀弥四郎)
大岡弥四郎は岡崎領主古記という史料によると、松平新右衛門、江戸右衛門七とともに岡崎城主、松平信康の町奉行でした。それ以前の弥四郎は低い身分でしたが、徳川家康の馬丁を勤めていた頃、矢作川が氾濫して水深がおぼつかなくなった時に弥四郎が真っ先に川に入り、浅瀬を探したので勇気があるとして家康に賞賛され二百石を受ける旗本に抜擢されその後、渥美郡の代官に任じられたと岡崎東泉記にあります。また、徳川実記によれば、弥四郎は民政と算盤に長けていたので抜擢され、岡崎城を往来して家康と信康に仕えていたそうです。
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武田勝頼と内通する大賀弥四郎
伝馬町旧記録によると、大岡弥七郎は天正2年頃までに松平新右衛門らと一揆の契約を交わし、武田勝頼に内通してその侵攻を助けたとされます。仲間には信康の家老、鳥居氏の陪臣、小谷甚右衛門や倉地平左衛門がいました。
三河物語によれば、弥四郎(大賀弥四郎)の計画は家康が岡崎にやってきたと偽って城の門を開けさせ、その隙に武田軍は東三河から岡崎へ侵攻して占領し信康を自害させる。そうして、岡崎在留の武士の妻子を人質に取って徳川家臣団を服属させ進退窮まった家康や一部の家臣が浜松城を落ちた所を待ち伏せて討ち取るというものだったようです。
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山田重英の密告で失敗
しかし、最初はクーデター計画に参加していた鳥居氏の陪臣、山田重英は途中で恐ろしくなり謀反の企てを信康に密告。信康が家来に命じて密談を盗聴させクーデターが露見しました。家康は弥四郎(大賀弥四郎)の裏切りに激怒し捕らえた上で岡崎と浜松城下で引きまわした上にノコギリ挽きで処刑し、弥四郎の妻子は磔になったそうです。
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異説では歩き巫女が登場
また一方で「岡崎東泉記」によると、武田氏が派遣した歩き巫女が岡崎城中まで入り込んで信康の生母築山殿まで到達、築山殿は信康を国主とするという武田の提案に乗り謀反を計画していたとも言われます。大河ドラマどうする家康の歩き巫女、千代にはモデルがいたんですね。
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恐ろしい鋸挽き
ノコギリ挽きというと、織田信長を狙撃して逮捕された杉谷善住坊が有名ですが家康もクーデターという最悪の陰謀を画策した弥四郎に容赦しませんでした。家康は岡崎城外で、弥四郎を首を残して地面に埋め、切れ味が悪い竹のノコギリを置いて通行人に少しずつノコギリを挽かせます。苦痛といつ死ぬか分からない恐怖に弥四郎は恐れ慄いた事でしょう。
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どうして大賀弥四郎は叛いた?
従来の歴史では、武田信玄の死去後は没落の一途をたどったと思われがちな武田氏ですが、実際には、勝頼の時代になっても精強で、長篠の戦いに勝頼が敗北するまでは、家康は決して安泰とは言えない状況でした。
そこで、岡崎では武田に味方して家康を見限ろうとする勢力が暗躍し、大岡弥四郎の背後には松平信康や築山殿がいたという話もあります。家康もその事は承知していましたが、武田勝頼の勢力が没落するまでは手が出せないと考え、長篠の戦いの終結後に信康と築山殿を処分したとも考えられるそうです。つまり、大岡弥四郎は決して単独犯ではなく、信康や築山殿の指示で動いていたものが、トカゲの尻尾切りされたという見方も出来るのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は岡崎でのクーデターの首謀者、大岡弥四郎(大賀弥四郎)を紹介しました。史料により情報は食い違いますが、弥四郎が単独で武田に内通しても成功するとは思えず、やはり背後には、信康や築山殿の指示があったような気が編集長はしますね。
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