南北朝時代、正統な皇位を主張した南朝。しかし、彼らが北朝に敗北したのは、理想だけを追い求め、現実的な戦略と武士の支持を失ったからでした。
この記事の目次
理想ばかりで「現実」が見えていなかった南朝
南朝滅亡の理由の一つ目は、「理想だけで勝てない」という現実です。南朝は「正当な天皇こそが国を治めるべき」と主張しました。それは正論でしたが、肝心の領地も兵力も乏しく、主な戦術はゲリラ戦で時間を稼ぐことばかり。理想を掲げる一方で、現実的な力を持っていませんでした。
- 南朝は正当性を主張しましたが、領地も兵力も不足していました。
- 主な戦術はゲリラ戦による時間稼ぎが中心でした。
- 理想を追うあまり、現実的な戦略が欠けていました。
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武士に嫌われ、内輪揉めで弱体化
二つ目の理由は、武士たちに嫌われてしまったことです。南朝は天皇中心の中央集権を目指し、貴族の意見ばかりを重視して、戦いの主役である武士の意見を無視しました。さらに、戦に勝っても恩賞が少なかったため、元々南朝に仕えていた武士たちも「バカバカしい」と北朝に寝返っていきました。加えて、味方同士での内輪揉めも繰り返し、有力な武将も次々と戦死。まとまりを失い、完全に弱体化してしまったのです。
- 天皇中心の政治を目指し、貴族の意見ばかりが重視されました。
- 戦に勝っても武士への恩賞(ほうび)が非常に少なかったため、武士たちは北朝に寝返っていきました。
- 味方同士での内輪揉めが絶えず、有力な武将も次々と戦死し、組織として弱体化しました。
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【まとめ】抵抗を諦め、北朝に吸収された南朝
分裂から半世紀が経った1392年、南朝の後亀山天皇はついに抵抗を諦め、和睦に応じました。こうして南朝は北朝に吸収され、歴史から姿を消します。「理想だけじゃ戦は勝てない」—南朝の滅亡は、夢と現実のギャップを教えてくれる歴史の教訓と言えるでしょう。
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Q&A:よくある質問
Q. 南朝が負けた一番の理由は何ですか?
A. 「正当な天皇が治めるべき」という高い理想はありましたが、それを実現するための領地や兵力といった「現実的な力」が圧倒的に不足していたためです。
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南北朝こそ日本の機密 現皇室は南朝の末裔だ/成甲書房/落合莞爾
Q. なぜ武士たちは南朝から離れていったのですか?
A. 南朝が貴族ばかりを優遇し、武士の意見を無視したためです。また、戦で活躍しても恩賞(ほうび)が非常に少なかったため、武士たちは北朝へ移っていきました。
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