日本史における中世の定義は、11世紀後半の白河天皇の院政期から16世紀後半の室町幕府の滅亡辺りまでの五百年と考えられています。時代区分で考えると平安末期から戦国末まですが、この中世、古代や近世とどこがどう違うのでしょうか?
今回のほのぼの日本史では中世の特徴と古代や近世との違いを分かりやすく解説します。
中世の特徴 並立権力
古代にも近世にもない中世の最大の特徴は唯一絶対の権力者がなく、複数の権力者が並立する状態であるという事です。
例えば、古代は天智天皇の時代以後、唐王朝の律令を受け入れて中央集権制に移行し、公地公民制で豪族の土地と人民を天皇の直接支配下に起き、班田収授法で人民に土地を貸し与えて耕させ納税させて、地方には国守のような役人を派遣し大和朝廷が直接全人民を支配する形式を取りました。
そして、近世は安土桃山時代以降ですが、朝廷、幕府、寺社、戦国大名、国衆、荘園領主のように複数に分かれていた地域の支配者が検地や刀狩り、あるいは江戸時代の武家諸法度、公家諸法度、寺院諸法度によって解消、序列化し幕藩体制に組み込まれた時代です。
中世は、古代や近世の絶対権力者がいる状態ではなく、私有地である荘園の支配を介して天皇、上皇、幕府、寺社、大貴族というような権力者が並立し相互に支配力を及ぼしていた時代でした。
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中世の特徴 荘園
中世の特徴として特筆すべきは荘園です。
荘園は簡単に言えば私有地ですが、ただの私有地ではなく不輸・不入の権と言って、政府が税金を取る事も、役人が調査に入る事も出来ない政府から完全に切り離された土地です。
例えば、古代の律令体制下では、公地公民の名の通り土地も人民も天皇の支配下にあり、原則私有地という存在はありませんし、近世の農民は検地によって土地に縛り付けられ年貢を納める義務を背負っていて、この年貢は地方では各地の藩主に納められ幕府の直轄地では幕府に納められ、それ以外に年貢を納める相手はいません。
荘園は古代の律令制が崩壊し班田収授法によって朝廷が人民に配ったり回収していた口分田が上手く循環しないようになって登場します。
当時の農民の租税は重く、加えて兵役や労働奉仕まで課せられ生活できなくなって、口分田を捨て、役人の手から逃れようと貴族や豪族や寺に匿われ小作人になりました。こうして税収が激減すると朝廷は、公地公民を緩和し自力で切り開いた耕作地の私有を認めるよという墾田永年私財法を出します。
この時に、逃げてきた農民や周辺の農民を雇用して、大々的に農地を開墾したのが貴族や、豪族や大寺院のような勢力で、これが初期荘園となりました。
最初は荘園と言えど朝廷に税金を納めていましたが、当時、大寺院は朝廷に保護され荘園も免税だったので、荘園を持つ貴族が反発して朝廷に圧力を掛け、不輸の権を獲得。
こうして荘園は免税田になり、国に一銭の利益ももたらさない白アリ的な存在となり、荘園が増加するだけ朝廷の税収は激減し大和朝廷は弱体化。
班田収授も戸籍の更新も公共事業も滞り、国軍を維持出来なくなり中央集権は崩れ、荘園を多く保有する大貴族の藤原氏や延暦寺、興福寺のような大寺院が政治に影響力を及ぼす並立権力が誕生します。
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中世の特徴 アウトソーシング
中世の特徴にはアウトソーシングもあります。
これまでに述べて来た通り、大和朝廷は公地公民制と班田収授法により人民に土地を貸し与えて耕させて、そこから租庸調の税金を得て財源にしていました。
しかし、班田収授法は重い租税のせいで上手く行かずに土地を捨てて逃亡する農民が続出。
これを何とかしようと朝廷は公地公民制を緩和して墾田永年私財法を発布して、新しく耕した土地の私有を認めますが、広大な土地を開いたのは口分田を捨てて逃げた農民を匿って、小作人とした大貴族や寺院であり、やがて彼らは荘園に課せられた税金の支払いを拒否して不輸の権を獲得します。
危機的財政難になった朝廷は、792年に健児の制を導入し、東北と九州の軍団以外の大和朝廷の正規軍を解体し、地方の郡司や有力農民の子弟から志願兵を募るやり方です。
つまり国軍を維持する金がないので官位を与えるから民間で軍隊を編制してくださいという事でした。
もう1つ、大和朝廷はアウトソーシングを実施します。
それが受領で、崩壊した律令体制で農民から満足に税金が取れなくなった国司の職務を緩和して、国司が配下である守、介、掾、目の下級官僚から、税の取り立てが上手そうな人間を選抜して受領とし徴税業務を請け負わせる制度でした。
これまで朝廷は、まがりなりにも国司に任地の行政を任せていましたが、受領からはそういう性格が消え、容赦なく税金を取り立てる徴税請負人の性格が強くなります。
また受領は決められた税金を朝廷に納めれば、残りを自分のものに出来ましたから、「受領は転びて後は土をもつかめ」と言うほど貪欲な人も多く、激しく収奪して農民に訴えられる人々も多くいました。
やがて国司は、徴税を受領に任せて自分は都にいて赴任しなくなり、地方は受領と受領と歩調を併せて成長した田堵と呼ばれる土着の実力者が動かすようになり、大和朝廷は地方統治に対する意欲を失っていきます。
税収減少で朝廷は貴族に給与を支払う事さえ停滞し、窮余の策として貴族の荘園に不輸の権を認めて税収を報酬とする事を許可。朝廷から給与を得られなくなった貴族はますます自分の荘園の収益しか考えなくなり、地方は完全に置いてけぼりになりました。
しかし、中央に見捨てられた形の地方は、逆に言えば独立した活動が可能になります。現在日本各地に多様な伝統文化が残っているのは、地方分権だった中世の500年があったお陰とも言えるのです。
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中世の特徴 村をまとめる田堵
古代の律令体制下では、農民は国守や郡司により戸籍を管理され、口分田を与えられて、田畑を耕し租庸調を納めていました。この頃は農民1人、1人が直接国家と繋がり徴税も戸ごとに行われていたので、ちょうど現代の納税と同じです。
しかし、重い税負担や兵役で農民が土地を捨て荘園に逃げ込んだり、税を免れようと戸籍を誤魔化すようになると国司や郡司はスムーズな徴税が不可能になりました。
この中で勢力を伸ばしたのが田堵と呼ばれる地方の実力者です。
彼らは、昔地方に赴任して、そのまま土着した国司や郡司の子孫や大昔からこにに住んでいた豪族の末裔であり、機能しなくなった律令制の中で武装した私兵団を保有し、武力で農民を従わせ村々のリーダーになっていました。
徴税請負人である受領は、この田堵の存在に目をつけ利益を与える代わりに、農民から一括して税金を徴収するように働きかけます。
さらに受領は田堵が徴税をしやすいように、それまで口分田と農民がバラバラだった状態を編制し、田堵を中心に田畑を集め、農民を周囲に住まわせて効率的に農作業が出来るようにしました。この田を名田と言います。
当初は、受領の命令を受けて徴税を請け負うだけだった田堵ですが、やがて土地に対する権力を強め、開墾地を広げて一族、郎党を従えて土地を支配するようになり名主へと変化、受領に対しても武力で反抗するようになります。
そして、名主の中から初期の武士団が誕生しました。
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中世の特徴 院政
中世の最大の特徴には院政があるでしょう。院政とは譲位して上皇になった元天皇が律令制の枠組みを脱して自由な立場で大きな裁量を振るう仕組みで、元々の律令には存在しない制度です。
律令に縛られず、また藤原氏摂関政治の干渉も受けないので上皇は天皇の権力を越える存在となり治天の君と呼ばれました。
ネガティブなイメージが強い院政ですが実際には、律令の枠組みから自由になれない天皇の動きを補完し荘園を巡る受領と名主(田堵)の対立を裁くなど、絶対権力者がいない中世において弱体化した朝廷の屋台骨を支えていました。
このように大きな権力を得た上皇には、荘園の権利関係の裁定が多数持ち込まれ、受領も名主も競って上皇に荘園を寄進して、その庇護を受けようとします。
特に名主は受領に踏み込まれないよう、不輸に加え不入の権を求め上皇に荘園を寄進。これらは寄進地系荘園と呼ばれ急速に全国に拡大していきました。
また、受領の中には伊勢平氏のような地方の武士団も含まれ、やがてその中から平清盛が台頭し、天皇と上皇、藤原摂関家の対立である保元の乱や受領同士の対立が引金になった平治の乱を制し治天の君を抑え、武家政権を樹立するに到りました。
中世の特徴 公武二元政治
平清盛が起こした平家政権は日本各地の受領を平家一門で独占します。こうして清盛死後には反平家の機運が急速に高まり、その中から源氏を率いる源頼朝が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。
こうして鎌倉幕府が誕生し、全国各地に守護・地頭を置くなどして朝廷の勢力に食い込んでいくものの、当初は東日本が基盤で西国には影響力が薄く、西国は依然、治天の君、上皇の勢力下にありました。
後鳥羽上皇が北条義時討伐を命じた承久の変後、勝利した北条氏は三上皇を流罪とし、上皇方についた武士団の荘園を没収するなど西日本へも勢力を伸ばしますが、それでも完全に朝廷を圧倒する勢力とはならず、日本の東西で二元政治が継続します。
そんな鎌倉幕府が後醍醐天皇の建武政権に倒された後、足利尊氏が北朝の天皇を擁立して南朝の後醍醐天皇と抗争を続ける南北朝の時代が60年も続き、ようやく足利義満の時代に南北朝の統一が成ります。
しかし、室町幕府は京都に拠点を起き天皇とも良好な関係であり、応仁の乱時には戦乱で御所が焼けた後土御門天皇が足利義政の室町第に10年も同居生活を続けています。
室町幕府そのものも、征夷大将軍の宣下を受けて各地の守護大名の上に立つ調整役で、軍事力や経済力が弱く、守護大名に御所を包囲されたり、足利義教のように守護大名赤松満祐に遺恨で殺害されるものがいました。
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日本史ライターkawausoの独り言
古代、律令制下の日本には、まだまだ地方独自の文化は育っていませんでした。しかし、律令制が崩れて荘園が増加し朝廷の権力が地方に届かなくなると、地方は田堵や受領を中心に、地域に合った制度を採用していき、ローカル色豊かな文化、経済が花開いていく事になります。
また、権力が1つの荘園の中に複雑に入り組んだ事で訴訟が多くなり法慣習が確立し契約を順守する国民性が誕生したのも中世のメリットと言えると思います。
参考文献:90秒スタディでよくわかる!日本史速習講義
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