「聖徳太子」は紙幣になったり、日本史の授業でもほぼ取り上げられる人物であることから、とても有名な人物ですよね。「17条の憲法」を定めるなど、政治家としても功績を残した聖徳太子ですが、多くの超人的伝説が伝わる人物でもあります。今回の記事ではそんな聖徳太子の伝説について紹介していきましょう。まずは聖徳太子のプロフィールから。
この記事の目次
天皇の息子として生まれ、政治家として活躍する聖徳太子
「聖徳太子」は31代天皇の「用明天皇」の次男として生まれました。「聖徳太子」は後世に広まった名前であり、通称として「厩戸皇子」と呼ばれることが多いです。
後の時代に編纂された「日本書紀」には「厩戸豊聡耳皇子命」と本名が記載されています。女帝「推古天皇」を補佐し、「冠位十二階」や「17条の憲法」を定め、「遣隋使」を中国の「隋」に派遣するなど、政治家として活躍しました。また、公式の歴史書として国記」「天皇記」も編纂しましたが、残念ながら現存していません。そんな聖徳太子、様々な「超人的」な伝説を残しています。
聖徳太子は厩(うまや)の前で生まれた?仏の生まれ変わり?
聖徳太子の母が厩(馬を飼う所)の前にいた際に産気づき、すぐに生まれた、という伝説があります。また、生まれる直前には「救世観音菩薩」が母の口の中に入った、という伝説も残っています。
これは聖徳太子が「仏の生まれ変わりである」という神聖さを強調した伝説だったのでしょう。「厩で産気づいた」というのは「イエスキリスト」の誕生伝説に酷似しており、なんらかの影響を受けているとも推定できます。
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聖徳太子は幼少期から優秀すぎた
聖徳太子は幼少期から超人的な優秀さを示していたと言います。2歳の時には合掌して東に向かって「南無仏」と唱えて礼拝し、7歳の時には仏教の経典を理解読破し、10歳の時には「蝦夷(中央に従わない人々)」との戦いに従軍しています。また、「生まれながらにして言葉を話すことができた」という伝説もあります。
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聖徳太子は10人の言葉を同時に聞くことができた
聖徳太子は人々の請願を聞く機会がありました。その時に10人が一斉に話し出したのですが、聖徳太子はそのすべてを聞き漏らさずに理解したと言います。これ以降聖徳太子は「豊聡耳皇子」とも呼ばれるようになったのです。
このエピソードは実は逆で、「豊聡耳」という名前から「耳が良かったのだろう」と推測して付け足した、という考えもあります。
ちなみに「36人の言葉を同時に聞き分けられた」という伝説もあることから、文献によって聞き分けられた人数には違いがあるようです。
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聖徳太子は未来を予知できた?
「日本書紀」には聖徳太子について「兼知未然」、すなわち「あらかじめ先の事を知ることができた」と説明されています。おそらく聖徳太子が気が利く人物だったと示したかったのではないかと思いますが、「兼知未然」は拡大解釈され、「聖徳太子は予言ができた!」という超人的な伝説につながったと考えられます。
聖徳太子の書いた「予言書」として「未来記」という書物の存在が噂されており、「平家物語」「太平記」でも「未来記」について言及されています。
初めて富士山に登ったのは聖徳太子?
聖徳太子は初めて富士山に登頂した人物である」という伝説が残っています。
しかも徒歩で登頂したのではなく、「甲斐の黒駒」と呼ばれる「飛ぶ馬に乗って」富士山に登ったという超人的伝説です。聖徳太子は献上された馬の中から、空を飛ぶ馬を見分けられた、というのです。聖徳太子が富士山に降り立った場所は富士山の八合目とされ、そのあたりは「駒ヶ岳」と呼ばれています。
そもそも聖徳太子は実在したのか?
数々の超人的な伝説から、「聖徳太子は実在しなかったのでは?」という説もあります。聖徳太子の事績や伝説についての記述は「日本書紀」「古事記」からであり、それらは聖徳太子の時代から1世紀後に編纂されたものです。そのため、「古代の天皇家に素晴らしい人物がいた」ことにするため、「厩戸皇子」の実績を過剰に記述したとも考えられるのです。
日本史ライターみうらの独り言
聖徳太子の超人的な伝説は、人々の心を惹きつけるものがあり、ここまで神格化された人物は日本史としては珍しいのではないでしょうか。たとえその伝説が本当ではなかったとしても、「厩戸皇子」はきっと尊敬を集めるような人物ではあったのではないでしょうか。
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