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聖徳太子にまつわる超人的な伝説は本当なのか?超人伝説の真相に迫る

01/05/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

聖徳太子

 

聖徳太子しょうとくたいし」は紙幣になったり、日本史にほんしの授業でもほぼ取り上げられる人物であることから、とても有名な人物ですよね。「17条の憲法」を定めるなど、政治家としても功績を残した聖徳太子しょうとくたいしですが、多くの超人的伝説が伝わる人物でもあります。今回の記事ではそんな聖徳太子しょうとくたいしの伝説について紹介していきましょう。まずは聖徳太子しょうとくたいしのプロフィールから。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天皇の息子として生まれ、政治家として活躍する聖徳太子

 

聖徳太子しょうとくたいし」は31代天皇てんのうの「用明天皇ようめいてんのう」の次男として生まれました。「聖徳太子しょうとくたいし」は後世に広まった名前であり、通称として「厩戸皇子うまやどのおうじ」と呼ばれることが多いです。

 

日本書紀の表紙 書類

 

 

後の時代に編纂された「日本書紀にほんしょき」には「厩戸豊聡耳皇子命うまやとのとよとみみのみこのみこ」と本名が記載されています。女帝「推古天皇すいこてんのう」を補佐し、「冠位十二階かんむりいじゅうにかい」や「17条の憲法」を定め、「遣隋使けんずいし」を中国の「ずい」に派遣するなど、政治家として活躍しました。また、公式の歴史書として国記こくき」「天皇記てんのうき」も編纂しましたが、残念ながら現存していません。そんな聖徳太子しょうとくたいし、様々な「超人的」な伝説を残しています。

 

 

聖徳太子は厩(うまや)の前で生まれた?仏の生まれ変わり?

 

聖徳太子しょうとくたいしの母がうまや(馬を飼う所)の前にいた際に産気づき、すぐに生まれた、という伝説があります。また、生まれる直前には「救世観音菩薩ぐせかんのんぼさつ」が母の口の中に入った、という伝説も残っています。

 

これは聖徳太子しょうとくたいしが「仏の生まれ変わりである」という神聖さを強調した伝説だったのでしょう。「うまやで産気づいた」というのは「イエスキリスト」の誕生伝説に酷似しており、なんらかの影響を受けているとも推定できます。

 

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聖徳太子は幼少期から優秀すぎた

17条の憲法を定めた聖徳太子

 

聖徳太子しょうとくたいしは幼少期から超人的な優秀さを示していたと言います。2歳の時には合掌して東に向かって「南無仏」と唱えて礼拝し、7歳の時には仏教の経典を理解読破し、10歳の時には「蝦夷えみし(中央に従わない人々)」との戦いに従軍しています。また、「生まれながらにして言葉を話すことができた」という伝説もあります。

 

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聖徳太子は10人の言葉を同時に聞くことができた

10人の言葉を同時に聞くことができた聖徳太子

 

聖徳太子しょうとくたいしは人々の請願を聞く機会がありました。その時に10人が一斉に話し出したのですが、聖徳太子しょうとくたいしはそのすべてを聞き漏らさずに理解したと言います。これ以降聖徳太子しょうとくたいしは「豊聡耳とよとみみ皇子」とも呼ばれるようになったのです。

 

このエピソードは実は逆で、「豊聡耳とよとみみ」という名前から「耳が良かったのだろう」と推測して付け足した、という考えもあります。
ちなみに「36人の言葉を同時に聞き分けられた」という伝説もあることから、文献によって聞き分けられた人数には違いがあるようです。

 

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聖徳太子は未来を予知できた?

 

「日本書紀にほんしょき」には聖徳太子しょうとくたいしについて「兼知未然けんちみぜん」、すなわち「あらかじめ先の事を知ることができた」と説明されています。おそらく聖徳太子しょうとくたいしが気が利く人物だったと示したかったのではないかと思いますが、「兼知未然けんちみぜん」は拡大解釈され、「聖徳太子しょうとくたいしは予言ができた!」という超人的な伝説につながったと考えられます。

 

 

平家物語 書類

聖徳太子しょうとくたいしの書いた「予言書」として「未来記みらいき」という書物の存在が噂されており、「平家物語へいけものがたり」「太平記たいへいき」でも「未来記みらいき」について言及されています。

 

 

初めて富士山に登ったのは聖徳太子?

富士山とkawauso様

 

聖徳太子しょうとくたいしは初めて富士山ふじさんに登頂した人物である」という伝説が残っています。

 

しかも徒歩で登頂したのではなく、「甲斐かい黒駒くろこま」と呼ばれる「飛ぶ馬に乗って」富士山ふじさんに登ったという超人的伝説です。聖徳太子しょうとくたいしは献上された馬の中から、空を飛ぶ馬を見分けられた、というのです。聖徳太子しょうとくたいし富士山ふじさんに降り立った場所は富士山ふじさん八合目はちごうめとされ、そのあたりは「駒ヶ岳こまがたけ」と呼ばれています。

 

 

そもそも聖徳太子は実在したのか?

Emperor(天皇のシルエット)

 

数々の超人的な伝説から、「聖徳太子しょうとくたいしは実在しなかったのでは?」という説もあります。聖徳太子しょうとくたいしの事績や伝説についての記述は「日本書紀にほんしょき」「古事記こじき」からであり、それらは聖徳太子しょうとくたいしの時代から1世紀後に編纂されたものです。そのため、「古代の天皇家てんのうけに素晴らしい人物がいた」ことにするため、「厩戸皇子うまやのみこ」の実績を過剰に記述したとも考えられるのです。

 

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日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

聖徳太子しょうとくたいしの超人的な伝説は、人々の心を惹きつけるものがあり、ここまで神格化された人物は日本史にほんしとしては珍しいのではないでしょうか。たとえその伝説が本当ではなかったとしても、「厩戸皇子うまやのみこ」はきっと尊敬を集めるような人物ではあったのではないでしょうか。

 

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大和朝廷

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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