NHK大河ドラマ「どうする家康」でも瀬名や於大がフィーバーしていた踊念仏。今作はファンタジー大河と呼ばれ、大胆な脚色が盛り込まれているものの踊念仏自体は存在し、それは現在でも盆踊りとして継続する日本人のソウルダンスになっています。今回は踊念仏の歴史を紹介しましょう。
踊念仏の由来と歴史
踊念仏は、平安時代に登場した念仏踊りが派生したものであるようです。念仏踊りは楽器を演奏する人と踊る人が別れている形式ですが、踊念仏は踊る人が念仏を唱え楽器を叩く点に違いがあります。踊念仏の創始者は平安時代初期の空也で、その後鎌倉時代に時宗を率いて全国を遊行した一遍上人が体系を確立しました。
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踊念仏の特徴とダンススタイル
踊念仏の特徴は、太鼓や笛、鉦などの楽器演奏に合わせたリズミカルな足踏みと手拍子です。また、歌詞は念仏ですが独特のリズムで踊り手と一緒に歌われます。踊念仏を全国に広めた一遍上人は広場に柱を立てて屋根を起き、捨て聖と呼ばれる数百人の男女の信者と共に鉦を打ち鳴らし念仏を唱えて踊り狂いました。
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過激な一遍の思想
しかし、この踊念仏、当時の知識人の中には眉をひそめる人が多くいました。理由は踊念仏があまりに過激で刺激的だったからです。一遍の教えは師匠筋の法然も飛び越え、阿弥陀如来にすがる依存心を捨て、自分を弱くする一切を捨て、考える事も捨て無我夢中で踊れば極楽浄土に近づけると説く過激なものでした。
そのため、一遍率いる捨て聖の集団は踊り狂ってうわ言を述べ、やがてトランス状態となり、衣服を脱ぎ捨て裸で踊る男女までいました。そのため都で話題になり、広場に時宗の舞台が立つと、周囲に市場が出来るほどの大盛況でしたが、保守的な知識人は踊念仏を狂人の所業として嫌悪したのです。
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盆踊りと踊念仏の関係
踊念仏は室町時代に登場する盆踊りのルーツの一つと言われています。
盆踊りの起源には諸説ありますが、お盆の期間に先祖の霊を迎え慰めるための踊りが原型と考えられています。この盆踊りに踊念仏の要素が取り入れられると宗教的儀式から大衆芸能へと変化し、盆踊りもより派手で賑やかなものに変化しました。
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仏教を身近にした踊念仏
踊念仏には、宗派を超えて広く庶民に愛される要素がありました。当時の庶民にとって、仏教は高度な学問で理解するのが難しかったのですが、踊念仏はリズミカルな音楽や踊りで仏教を分かりやすく説き庶民が親しめるものにしたのです。
また、大勢が参加する踊念仏は地域の結束を強める効果をもたらし踊ることで、地域の人々が一体感を持って交流を深めていきました。どうする家康でも踊念仏は本證寺に集う一向宗門徒を団結させる重要な役割を果たしていたのでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
踊念仏は平安時代初期に念仏踊りから派生し、鎌倉時代中期に時宗開祖一遍上人によって体系化し、屋根付きの舞台の上で大勢の男女が一心不乱に念仏を唱え、踊り狂う事で極楽往生に近づけると説き、宗派を超えて日本各地に伝播していきました。
大勢の人々が一緒に踊る「踊念仏」は人と人の心の垣根を崩して一体感を与えるものとして盆踊りにも継承され、現在でもお盆の時期に踊られています。
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