水野信元とはどんな人?石高堂々の24万石!尾張と三河に跨る中堅戦国大名

19/01/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

水野信元

 

水野信元は徳川家康の母、於大(おだい)の方の異母兄です。尾張知多郡と三河壁海(へきかい)郡に勢力を持ち、同じく知多郡で勢力を持つ戸田氏、大野佐治氏と抗争と和睦を繰り返し知多半島にゆるぎない勢力を築き、織田信秀の三河攻略に協力し、また家康と信長の清須同盟に関与しました。最盛期は24万石の国力を持った信元ですが、その勢力ゆえに信長に危険視され殺害されてしまうのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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尾張知多郡の豪族、水野忠政の子として誕生

水野領地

 

水野信元は尾張知多郡に勢力を持つ豪族、水野忠政の子として誕生します。1543年父の死後、信元は水野宗家の家督を継いで尾張国知多郡東部と三河国碧海郡西部を領有しました。

 

父である忠政は松平広忠と歩調を合わせ今川氏についていましたが、信元は織田家に接近。そのために、松平広忠に嫁いだ妹の於大の方は離縁されました。こうしてみると家康が幼くして母と離れ離れになったのは伯父の元信のせいに見えますが、事態はそこまで単純ではありません。

 

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於大の方離縁は広忠から切り出した?

於大の方(女性)

 

元々、広忠と於大の方の縁組を勧めたのは広忠の後見人だった松平信孝でしたが、広忠は信孝を追放しているのです。また、信元の妻は広忠と仲が悪かった松平信定の娘であり、その事から広忠が信元を信用せずに於大の方を送り返したとも考えられます。それに松平信定は織田家と婚姻関係にあり、その点も今川氏の庇護を受けていた広忠が気に入らない点でした。

 

松平広忠

 

 

映画や小説では、泣く泣く於大の方を離縁する描写が多い心優しい広忠ですが、本当は婚姻の最初から於大の方が気に入らず、嫡男の家康が誕生したタイミングで送り返したというのは、少々意地悪な考察でしょうか?

 

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知多半島へ覇権を広げる

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

広忠に縁を切られた信元は、信定の娘を介して織田家に接近、離縁された妹の於大を知多半島の豪族、阿久居(あぐい)の久松俊勝に嫁がせています。

 

織田家と結んだ信元は知多郡の平定に乗り出します。1543年に知多郡宮津城主の新海淳尚(しんかいじゅんしょう)を攻め滅ぼすと、そこに亀崎城を築き、さらに成岩城主の榎本了円(えのもとりょうえん)を滅ぼし、それぞれの城に一族を配置します。次に長尾城主の岩田安広を包囲、今川軍の援軍が来る前にこれも滅ぼしました。

 

同じく知多郡に勢力を持つ支流の常滑水野氏(とこなめみずのし)には娘を嫁がせて、信元は知多半島の横断路を確保。次に知多半島の富貴(ふうき)布土(ふっと)北方(きたかた)に勢力を持っていた豪族の戸田氏を攻撃して領地を奪い取り東三河に追いやります。

勢力を伸ばした信元は、松平広忠に揺さぶりをかけ松平氏配下の上野城主、酒井忠尚(さかいただなお)を離反させ味方に引き込みます。さらに今川氏に押されて追い詰められた戸田氏が信元との同盟を打診するとこれに応じ戸田氏は水野氏の一族となりました。

 

信元は、強大な勢力を背景に知多郡の有力豪族大野佐治氏とも和解し、尾張知多半島をほとんど制圧します。

 

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織田信秀の三河攻略をアシスト

虎といちゃつく織田信秀

 

強大化した信元のアシストを受け、知多半島を通過できるようになった織田信秀は1547年頃から三河に侵攻します。しかし、自領を攻撃された三河松平氏は果敢に反撃、1549年に信秀は三河攻略の拠点である安祥城を今川氏に奪回され三河攻略を諦め今川家と和睦しました。ここで水野信元はしれっと織田から今川に鞍替えしたと見られています。

織田信長と喧嘩をする織田信勝

 

1551年、織田信秀が感染症で急死し、織田信長が家督を継ぎますが、すぐに弟信勝を担ぐ勢力との間で内紛が起こります。この間に今川義元は、織田方勢力の引き抜きを繰り返しますが、信長も負けずに調略を仕返しています。この頃、信元は再び今川から織田に鞍替えしました。

 

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武田信玄

 

 

 

織田信長に窮地を救われ配下に

 

今川義元は信元のコウモリ野郎な動きが許せず、1554年兵を出して知多半島の信元の勢力下にある重原城を攻略。さらに緒川城、刈谷城も包囲し、信元は大ピンチに陥り織田信長に救援を求めます。

 

この時、信長は本拠地を舅の斎藤道三からの援軍に任せ空にするという大胆な奇策を打ち出して援軍に急行し、今川の出城である村木砦を鉄砲を使って短期間で攻略、緒川城を解放し、以後信元は信長に従属する立場となりました。

 

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桶狭間では甥の家康を逃がす

ヘタレすぎる徳川家康

 

1560年の桶狭間の戦いでは、水野信元は甥の家康が兵糧を運び込んだ大高城の南にいて、奮戦したようです。この戦いで今川義元が信長に討たれると、信元は甥の家康が逃げられるよう落ち武者狩りの一揆勢を押しとどめたそうです。

 

信元は激戦で刈谷城や重原城を失いますが、今川軍が総崩れになると、すぐさま奪い返しています。

 

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信長と家康を仲介し清須同盟を結ばせる

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その後、信元と家康は、織田家と今川家の鉄砲玉として何度も紛争を繰り返しますが、義元の後を継いだ氏真は関東に攻め込んできた上杉謙信に対応するのに手一杯で、家康の救援が出来ませんでした。

 

そこで、水野信元は甥の家康に対し「落ち目の今川を切って織田と結べば松平を守ることが出来る。自分が仲介の労を取ろうではないか?」と持ち掛け、家康も歩み寄り1562年に清須同盟が結ばれました。信元は以後、家康の相談役として影響力を持つと同時に、13代将軍足利義輝にも接近し幕府直臣の地位を得ています。

 

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主要な戦いに従軍し石高は24万石に到達

もう嫌じゃーと嘆く徳川家康

 

その後の信元は変わらず織田家の家臣として信長の上洛に従い、1570年の姉川の戦いでは佐和山城を攻略。1572年の三方ヶ原の戦いでは家康に援軍を出しました。

徳川家康をボコボコにする武田信玄

 

ここでは武田信玄相手に野戦を主張する家康と籠城戦を主張する信元で激しい意見対立がありましたが、家康が三方ヶ原で敗れて浜松城に逃げ戻ると、信元が代わりに出陣して兵を指揮、浜松城に松明を焚いて鉄砲隊を配置し武田軍を威嚇して家康の窮地を救いました。1575年の長篠の戦いで信元は3000の兵士を率いて従軍、当時の石高は24万石と甲斐一国に相当し戦国大名に成長しています。

 

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武田勝頼内通の嫌疑を掛けられ家康に殺される

佐久間信盛

 

しかし、信元の最後は突然にやってきました。1576年1月、佐久間信盛が信元が武田方の武将秋山信友に内通し兵糧を輸送していると信長に讒言。

 

処刑された水野信元

 

信長はそれを真実として家康に信元父子の殺害を命じました。家康は腹心の平岩親吉を刺客として派遣し信元は三河大樹寺で殺害されます。

織田信長に追放される佐久間信盛

 

信元の領地は佐久間信盛に与えられますが、後に信盛が信長の勘気を被り、高野山に追放された後、信長の命令により「信元は冤罪だった」として水野家の旧領が信元の末弟、忠重に返還されています。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

水野信元が本当に武田に内通していたのかは不明ですが、信元の死後、信元の領地が佐久間信盛に全て与えられた経緯を見ると、信長が讒言を信じたというより信長の本拠地に近い知多郡に甲斐一国に匹敵する石高を持つ外様大名がいる事が、そもそも邪魔だったのではないかという疑念が浮かびます。

 

この頃になると信長は身内の領地を畿内に集め、外様の領地は遠くに飛ばしているので、信元に対する処置もその一環のような気がします。水野信元は有能であったがために、晩年の信長に危険視され、お払い箱にされたとするのが哀しく理不尽ですが真実に近いのではないでしょうか?

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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