徳川家康には正体が謎に包まれた天海僧正のような黒衣の宰相がいますが、今回取り上げる西笑承兌も家康が重んじた僧侶でした。しかも西笑承兌は家康の前に秀吉に仕えており、悪名高い朝鮮出兵を文書で煽った人物でもあったのです。
この記事の目次
幼くして出家し相国寺の鹿苑僧録となる
西笑承兌は、1548年に生まれました。幼少期に出家し、当初は一山派の仁如集堯等に参禅して学び1584年に相国寺に移り住みました。当時の相国寺は応仁の乱、そして細川晴元と三好長慶との争いなどで伽藍が焼けて没落していましたが、西笑承兌は寺を再建し、翌年には鹿苑僧録となります。鹿苑僧録とは臨済宗の事実上の最高機関で五山以下の諸寺を統括、諸寺の寺格決定や住持の任免、所領・訴訟などの処理をします。
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明への外交文書を執筆し豊臣政権に接近
鹿苑僧録は、室町時代には明王朝への外交文書を起草する役割を持っていました。西笑承兌には学識があり漢文も読めたので鹿苑僧録に就任できたのでしょう。そんな鹿苑僧録の外交文書の作成能力を求めていたのが小田原北条氏を滅ぼして天下を統一したばかりの豊臣秀吉でした。すでに明国征服の野望を持っていた秀吉は西笑承兌をブレーンとし李氏朝鮮、さらには明王朝への圧迫を強めていく事になります。
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秀吉を日輪の子と形容した西笑承兌
李氏朝鮮が秀吉の催促に負けて、秀吉の日本統一の祝賀の為に慶賀使を送ると、秀吉は返書を使節に持たせました。これを起草したのが西笑承兌で、そこには秀吉が日輪の子であり、世界の隅々までを明るく照らすのは天命である。朝鮮は日輪の子に従い明国への道案内を引き受ければ、何の憂いがあるだろうかと上から目線の手紙を書いています。
この日輪の子という形容詞は中国やモンゴル皇帝の誕生時の逸話のテンプレでした。琉球でも中山王の英祖の母が太陽を飲みこむ夢を見て英祖を産んだとする伝承があります。李氏朝鮮は返書を傲岸不遜で無礼であるとして黙殺。秀吉は明国の前に李氏朝鮮を征伐する事になります。
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諸大名を相手に吹きまくる西笑承兌
1592年、西笑承兌は豊臣秀吉の供をして肥前名護屋に向かいます。そこは朝鮮出兵の拠点であり、巨大な城と諸大名の人質たちが住むための城下町が形成されていました。当初、秀吉は自ら唐入り(大陸に渡る事)を望みますが、徳川家康や前田利家に止められます。説得を受けた秀吉は渡海を諦め、代わりに自分の気持を込めて、西笑承兌に朝鮮に渡った諸将に対する檄文を起草するように命じます。
檄文には、豊臣秀吉は、織田家の家臣の時代から常に少数の兵力で多数の敵を撃ち破り、日本を統一した戦の天才である。この困難な仕事に比較すれば、お前達は数十万の大軍で、筆より重たい物を持った事も無い、処女の如き明国を攻めるのだから、それは山が卵を押しつぶすようなもので簡単な事であろう。明国ばかりかその勢いでインドやヨーロッパの征服も不可能ではない。お前達の手柄を羨ましがらない者は日本にはいないぞと、これでもかというレベルの吹きまくった内容が盛り込まれていました。
実際、秀吉は明の軍事力について、長袖の国(袖が長く弓や槍を持てない文弱の国)で攻めれば簡単に倒せると楽観的な情報ばかり受けていたようです。その楽観的な情報を流した人間の1人が西笑承兌であろうことは疑いようがありません。
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小西行長、石田三成等が講和を模索
しかし、初期の連戦連勝が過ぎると日本軍は補給に苦しむようになり、また、明からの援軍と朝鮮人民のゲリラ活動に悩まされるようになります。明国に攻め込むどころか朝鮮半島の征服さえ危うくなった日本軍では、小西行長と石田三成が中心となり、明と講和を結んで、さっさと朝鮮から引き上げようとする動きが活発になりました。
状況は援軍に駆り出された明軍も同じで、早く朝鮮から引き上げたいと言う両者の思惑は一致し、お互いに相手が降伏したとする嘘の講和条件をつけて戦争を切り上げようとしたのです。明側の沈惟敬は秀吉が降伏したとして、明皇帝より秀吉を日本国王とする冊封の文書を送ります。小西行長は西笑承兌に対して、明が秀吉に降伏したと嘘の内容を読み上げてくれと依頼しました。
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偽の講和条約を暴露する
ところが、西笑承兌は秀吉の前で冊封の内容をそのまま読み上げました。秀吉は汝を日本国王とすると読み上げた文言に顔を真っ赤にして怒ります。「これはどうしたことだぎゃ!明はわしに降伏したんじゃにゃぁのきゃ!」もちろん講和はご破算になります。秀吉を騙した小西行長は秀吉に処刑を命じられますが、石田三成や淀殿、それに西笑承兌が助命嘆願したのでなんとか救われますが、沈惟敬は皇帝を欺いたとして処刑されました。
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秀吉の死後は家康に重用される
その後も、西笑承兌は大仏殿の近くに耳塚を築かせ、朝鮮における日本軍の戦果を強調するなど、秀吉の意図に沿った活躍をします。そして1598年に秀吉が死去すると西笑承兌は、豊臣秀吉に対し忠誠を誓う事を求めた起請文を全大名に出しています。こうまでした西笑承兌ですが、関ケ原の戦い以後は徳川家康に接近し、今度は朝鮮出兵の後始末外交に従事します。こうして西笑承兌は1608年に60歳で天寿を全うしました。
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日本史ライターkawausoの独り言
西笑承兌は一言で言えば有能なイエスマンだと思います。彼自身に明確な信念や思想はなく、時の権力者に対し自分の豊富な外交知識を利用してもらう事で権力を維持したのです。このような人は忠臣とは言い難いですが、特にこだわりが無いので権力者が変化してもすんなりと順応していけ生き残りやすい人であるとも言えますね。
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