畠山重忠の死因とは?功臣の壮絶な死を解説

03/09/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

畠山重忠

 

 

畠山重忠はたけやましげただ」(はたけやましげただ)は鎌倉幕府かまくらばくふ創設に大きな貢献をした武将です。「鎌倉武士の模範」とも言われ、戦での活躍に加え、人物的にも優れた人物だった伝わりますが、その最期は謀反の疑いで殺されるという悲しいものでした。今回の記事では重忠が謀反の疑いをかけられた経緯と、彼の死因について調べてみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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多くの戦で活躍し、逸話も多い畠山重忠

源頼朝に降伏して御家人となる畠山重忠

 

畠山重忠はたけやましげただは元々は平氏に仕えていましたが、源頼朝みなもとのよりともが挙兵したのちは彼に降伏、以後は主に軍事面で平氏との戦いで貢献していくことになります。

 

 

宇治川の戦いうじがわのたたかい」では味方を怪力で向こう岸まで放り投げたり、「一ノ谷の戦いいちのやのたたかい」の逆落としでは、「馬にケガをさせられない」と、馬を背負って崖を下るなど多くの伝説を作った武士でもありました。後世には「模範的な武士」「清廉潔白」と言ったイメージが定着しています。

 

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源義経

 

 

北条時政の婿と揉める畠山重忠

平賀朝雅

 

ある日、京都にある「平賀朝雅ひらがあさまさ」(北条時政ほうじょう ときまさの娘婿)の邸宅で御家人たちの間で宴会が開かれました。その場で平賀朝雅ひらがあさまさと重忠の息子「重保しげやす」の間で言い争いが発生したのです。

 

初代執権に就任する北条時政

 

実は畠山家は「武蔵国むさしこく」の武士団を統括する役目にあったのですが、平賀朝雅ひらがあさまさ武蔵国むさしこくの「国司こくし」(国の支配を担当)で、北条時政ほうじょう ときまさ武蔵国むさしこくの行政権を握っていました。そのため、平賀朝雅ひらがあさまさ北条時政ほうじょう ときまさそして畠山家の間では武蔵をめぐって何らかの確執があったとも考えられます。宴会での言い争いは周囲が何とか収めましたが、畠山重忠はたけやましげただの周囲には不穏な空気が流れ始めます。

 

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謀反の疑いを掛けられる畠山重忠

りく(牧の方) 女性 鎌倉殿の13人

 

 

宴会での争いから数か月後、平賀朝雅ひらがあさまさは妻の母「牧の方まきのかた」に「畠山重保しげやすに悪口を言われた」と訴え出ます。牧の方まきのかた北条時政ほうじょう ときまさの妻であり、彼女は時政に「畠山父子が謀反を企てている」と告げ口をしてしまいます。時政は息子の「北条義時ほうじょうよしじ」らに重忠の討伐を相談しますが、彼らは「重忠は忠義の武士であり、謀反を起こすはずはない。」と反対しますが、牧の方まきのかたの兄に「牧の方まきのかたは君らの本当の母ではないから聞く耳持たないのだろう。」と煽られ、畠山父子の討伐に同意してしまいます。

 

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ついに討伐隊が派遣されてしまう

北条時政

 

時政は畠山父子を討伐すべく、軍を派遣します。畠山重保しげやすは自分が討伐対象になっているとは思わず、家臣と共に鎌倉へ向かいますが、そこで軍に取り囲まれてしまいます。自分が討伐対象となっていることに重保しげやすは驚きますが、やむを得ず少数で奮戦しますが、殺されてしまいます。

 

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重忠の死因は「矢傷」

謀反の疑いで挙兵に追い込まれる畠山重忠

 

一方父の重忠は本拠地の武蔵にいましたが、鎌倉で謀反騒ぎがあると聞き、こちらも鎌倉に向かいます。しかし、二俣川(神奈川県横浜市)に通りかかったころ、大軍に取り囲まれ、ここで自分が狙われていることを知ります。重忠が率いていたのは次男の重秀など僅か130人程度の軍勢で、とても鎌倉の大軍にはかないません。周囲は本拠への撤退を促しますが、重忠は戦うことを決意、10倍以上の鎌倉軍と4時間以上に渡り奮戦します。

 

畠山重忠を滅ぼす事に成功した和田義盛

 

しかし、「愛甲季隆」(あいこうすえたか)という弓の名手に矢で射られ、その傷が基で首を獲られることになってしまったのです。重忠の死因は「矢傷」と言えるでしょう。なお、「愚管抄」という歴史書によると、重忠は自害した、という記述があります。

 

はじめての鎌倉時代

 

 

横浜市旭区に「さかさ矢立」

 

現在の横浜市旭区に「さかさ矢立」といわれる竹が植えられています。ここは重忠の最期の場所であり、重忠が射られ亡くなる直前に「わが心正しければこの矢にて枝葉を生じ、繁茂させよ」と2本の矢を地面に突き刺したところ、なんとその矢が根付き、毎年2本ずつの竹が茂ってきて、それが「さかさ矢立」と言われるようになったと言います。実際の「さかさ矢立」は開発で失われてしまったようで、現在のものは重忠没後800年を記念して有志が植えたものです。近くには北条家の大軍が矢をはなち、畑のようになった、という由来の「矢畑」という場所もあります。

 

北条義時

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

畠山重忠はたけやましげただの死因は「矢傷」でした。畠山重忠はたけやましげただの評価は高く、のちに浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなっています。重忠を討たせた北条時政ほうじょう ときまさ平賀朝雅ひらがあさまさは後に失脚し、重忠の評価はさらに高まったと言います。優秀ながら討たれた重忠はまさに「悲劇の英雄」にふさわしい武士といえるのではないでしょうか。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

 

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日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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