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坂本龍馬はどんな性格をしていたの?同時代の偉人たちから見た龍馬の性格


坂本龍馬(幕末時代)

 

歴史上の人物の中でも人気の高い坂本龍馬(さかもとりょうま)。彼が生まれた現在の高知県には誕生日の記念碑が建てられ、毎年11月15日には、様々なお祭りが行われるほど、地元の方だけでなく、全国の方から人気があります。

 

今回は、そんな人気の、坂本龍馬の性格について紹介していきます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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坂本龍馬の生い立ち

ピストルを乱射する坂本龍馬

 

まずは坂本龍馬についておさらいしましょう。

坂本龍馬

・出身地  :土佐藩(現在の高知県)

・生年月日 :1836年1月3日

・死亡年月日:1867年12月10日(享年31歳)

・身長   :推定169cm〜179cm(諸説あり)

 

坂本龍馬は5人きょうだいのうちの次男として生まれました。坂本家は質屋・酒造業・呉服商を営む才谷屋(さいたにや)の分家であり、身分は低いが裕福な家庭で育ちました。

 

剣術を磨くため江戸にいた19歳の坂本龍馬

 

その後、龍馬は姉から剣術を教わり、1853年、剣術修行のため江戸を出ました。

 

ペリーの黒船来航を見ちゃった坂本龍馬

 

同年、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航し、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就きます。

 

窓を開けて寝ている坂本龍馬(不用心)

 

1862年には藩内で尊王攘夷(そんのうじょうい)の主張が通らず、土佐藩から脱藩。

 

薩長同盟が結ばれるシーン 坂本龍馬と西郷隆盛と桂小五郎

 

そして、1866年薩摩藩と長州藩の同盟へと導きました。

 

大政奉還した徳川慶喜

 

1867年大政奉還(たいせいほうかん)の成立に努め、倒幕およに明治維新に多大な影響を与えました。そして、1867年12月10日、「十津川郷士(とつかわごうし)」と名乗る男たち数人が龍馬に面会を求めてきます。

 

坂本龍馬の臨終(暗殺)

 

面会を通し、そのまま二階に上がり、襲撃。龍馬と中岡は武器を持っておらず、龍馬は額を深く斬られ、他数か所を斬られて殺害されました。

 

 

近江屋主人である井口新助(いぐちしんすけ)が気づいたころには龍馬は既に亡くなっていました。藤吉(とうきち)と中岡は傷の手当は受けたものの、帰らぬ人となってしまいました。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

11月18日、海援隊、陸援隊により、龍馬、中岡、藤吉の葬儀が行われました。31歳の若さでこの世を去りました。

 

坂本龍馬の性格がわかる名言集

長崎で亀山社中を結成する坂本龍馬

 

一般的に坂本龍馬の性格というと、

 

  • 些細なことは気にしない寛容な性格
  • つかみどころがなく、型にはまらない自由人

 

このようなイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。

 

坂本龍馬は幼い頃は、同じ土佐藩で幼馴染の武市瑞山(たけちずいざん)の家を訪れた時、机にあった柿を許可を求めず、皮ごと食べて、種はそのまま吐き捨てていたようです。また、武市瑞山の家の前で立ちションをしていました。

 

他には龍馬の妻、楢崎龍(ならさきりょう)には名前が似ているから改名させようとするなど、なかなか自分勝手で豪快な性格だったことが窺えます。

 

勝海舟に弟子入りを願い出る坂本龍馬

 

大人になってからの龍馬は一転して人間味があり、コミュニケーションが上手く誰とでも仲良くなれ、謙虚だったようです。犬猿の仲の薩摩藩と長州藩を同盟へと導いたのですから、うなずけますね。

 

偉人たちから見た坂本龍馬の性格

板垣退助

 

板垣退助(いたがきたいすけ)は、「豪放磊落(ごうほうらいらく)、到底吏人べからず、龍馬もし不惑の寿得たらんには薩摩の五代、土佐の岩崎たるべけん」と言っています。細かいことは気にせず、マイペースな性格なので役人には向かないだろう。もし、龍馬が40歳を迎えていたのなら、薩摩の五代や土佐の岩崎のような人物になってただろうという感じの意味になります。

 

武市半平太(たけちはんぺいた)は、「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名に恥じず」と言っています。

 

訳すと、「元から度量があり、思いがけない機会が自然と湧き出し、その様ははたして逃げているのか潜んでいるのか分からない」となります。数々の功績と行動力の高さを表していますね。

 

次元の高い考えを持つ勝海舟を尊敬した坂本龍馬

 

勝海舟(かつかいしゅう)にはエピソードがあり、最初は自分を殺しに来たはずなのに、勝海舟の話を聞くうちに子の方にはかなわないと潔くなり、教えをこうため態度を一変したという話があります。機転が利くうえ、潔さも持ち合わせていたようです。

 

幕末_中岡慎太郎

 

中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は時流に合わせて柔軟に行動する龍馬のことを「龍馬君はさすが才子なり」と痛烈に皮肉を言っています。

 

 

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は「坂本龍馬氏は土州藩士にして国事の為に日夜奔走して頗る尽力せしは衆庶の知る所なり」、「坂本龍馬は土州藩なり。すこぶる勤王家にして国家のため尽力せし人なり」と言っていることから、一般の人々のことも思っていて国家のために尽力する人だったことが分かりますね。

 

誰よりも国の将来を考えていたのでしょう。

 

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浜 俊章

浜 俊章

これまで日本がどのような歴史を辿ってきたかを分かりやすく丁寧に解説していきますね。歴史は知れば知るほど面白いですよ。
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