47都道府県戦国時代

沖縄県の戦国時代を徹底解説!いったい他府県とどう違う?【ご当地戦国特集】

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

YouTube動画で話題沸騰!ほのぼの日本史ご当地戦国特集。関東や近畿、東海以外の全国の戦国時代を解説して大好評なんですが前回の北海道に続き、今度は日本最南端の県である沖縄県の戦国時代を解説します。

 

世間一般では歌と三線の平和の島と考えられがちな沖縄ですが、どっこい戦国時代はちゃんとありましたし、その支配地域は沖縄だけでも無かったのです。

 

旧石器時代の沖縄

忙しい方にざっくり解答02 kawausoさん

 

沖縄に人が住み始めた記録は22000年前の港川人にさかのぼります。港川人は小柄で縄文人の骨格の特徴と南方のアボリジニに似た点が見られました。しかし、港川人はどこかの段階で絶滅してしまい、現在沖縄人の直接の先祖というわけではないそうです。

 

旧石器時代の終わりから3000年の空白を経て紀元前6000年頃から、イノーと呼ばれる浅瀬に生息する魚や貝や海藻を食べて生活する人々が海岸に集落を作りました。彼らは食べた貝や魚や獣、時には人骨も貝塚に捨てていたので、この時代を貝塚時代と呼んでいます。

 

貝塚時代を構成した人々は、九州から南下した人々や大陸から渡来した人やフィリピンのような南陽諸島から北上した人など多様な人々でした。

 

源義経の八艘飛び

 

この貝塚時代は居心地が良かったのか、本州に稲作が伝来した後も12世紀一杯続きます。日本では源平合戦が起きていた頃、沖縄の人々は縄文時代の延長戦を続けていたのです。沖縄の人がのんびりしているのは、貝塚時代を引きづっているせいかも知れません。

 

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鉄器の普及とグスク時代

鉄甲船

 

沖縄人はのんびり屋で1200年も長く縄文ライフを続けていましたが、それには理由がありました。沖縄諸島には金属資源がなく特に鉄を自前で調達する事が不可能でした。おまけに周辺は海で、大きな船を建造する技術もない当時の沖縄では、貝塚時代を続けるより方法が無かったのです。

 

しかし、11世紀になると九州で日宋貿易が盛んになり、その余波で日本の貿易船が沖縄まで南下してくるようになり、過去は遣唐船が難破して漂着した時くらいしか日本の史料に名前が出なかった沖縄が定期的に記録されるようになります。

 

こうして沖縄に鉄と台風を回避する事が可能な半農半畜の南九州型の農業がもたらされました。鉄の農具と農耕の普及により、人々は海岸から小高い丘に住居を移すようになり、人口も飛躍的に増加。

 

それと同時により多くの鉄を持ち人民を支配する按司と呼ばれる有力者が各地に出現し、防衛拠点かつ宝物倉としてグスクを築きました。やがて、各地の按司は領地拡大を目指して淘汰(とうた)と併合を繰り返し沖縄に戦国時代が訪れる事になります。

 

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【教科書では読めない裏話満載の戦国時代特集】
はじめての戦国時代

 

 

最初の王朝 天孫氏?

水滸伝って何? 書類や本

 

沖縄において、正式な歴史書である中山世鑑が編まれるのは17世紀後半とかなり遅く、そこには創造神アマミキヨの子孫、天孫氏(てんそんし)が1万年以上も沖縄を統治した後、25代目の王が重臣の利勇に殺害されて滅亡。

 

その後、利勇が暴君として残酷な政治を敷いた為に、源為朝(みなもとのためとも)を父とする尊敦(そんとん)という人物が立ち上がり、人心を集めて利勇を倒し舜天王朝(しゅんてんおうちょう)を興したとされています。

 

これは、当時広く民間に流布していた源為朝が伊豆から沖縄に流れ着いて、按司の娘を娶り、その子が王になったという貴種伝説を下敷きにしたもので、王朝そのものは存在したのでしょうが、浦添や牧港のような貿易港とその周辺を支配していたに過ぎず、沖縄全土を統一していた確証はありません。

 

舜天王朝は、次に英祖(えいそ)王朝、さらに察度(さっと)王朝に交替していきます。察渡は14世紀後半の人物で、明王朝からの朝貢の要求に応えて使節を派遣し、明王朝の史料に名前が出てくるので実在が確実視されています。

 

この察渡王朝の時代、琉球は北部に支配力を持つ北山、南部に支配力を持つ南山に勢力が鼎立し、三山時代と呼ばれる時代に突入。三山それぞれが明王朝に進貢し貿易で富を貯え、他国を併合しようと鎬を削っていました。

 

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弱小勢力 佐敷の尚巴志が沖縄統一

 

北山、中山、南山の三国鼎立が続いていた沖縄において、天下統一を果たしたのは、三山のいずれでもなく、南山勢力の一部で佐敷(さしき)を支配していた尚巴志(しょうはし)という人物でした。

 

尚巴志は小男ながら知恵が働く人物で、中山王国に奇襲を掛けて滅亡に追い込むと、中山国が握っていた明王朝との交易権を手に入れ、那覇港を開いてアジア各地と盛んに交易をして富を貯える一方で、頻繁に謀略を駆使して北山と南山に与する按司たちを離反させていき、1429年頃までには北山と南山を攻め滅ぼし史上初めて沖縄を統一します。

 

その後、尚巴志は謀反の火種が燻ぶる北山に重臣で名将の護佐丸を配置して睨みを効かせ沖縄全体に軍用道路である宿道を整備、首里の高台に首里グスクを築城し中山と南山の按司に、月に一度の参勤を命じるなど、中央集権体制の確立に邁進(まいしん)しました。琉球王朝の基礎は、この尚巴志によって確立されたのです。

 

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沖縄再び三国時代に

炎上する城a(モブ)

 

尚巴志は1439年に67歳で死去しますが、その後尚巴志の後継者には短命が続きます。そればかりか1454年には、尚巴志の子である布里(ふり)と先代の尚金福(しょうきんぷく)王の世子である志魯(しろ)が王位を巡って争う志魯・布里の乱が起き、首里城が炎上する事態になりました。

 

この事態を治めたのは、同じく尚巴志の子である尚泰久(しょうたいきゅう)でしたが、すでに尚巴志が興した王朝の権威は弱まり、沖縄は中城に勢力を張る尚巴志の重臣護佐丸(ごさまる)、そして、農民の子から知略で勝連グスクの按司(あじ)に上り詰めた風雲児、阿麻和利(あまわり)により勢力が三分される三国鼎立(ていりつ)に突入します。

 

しかし、知恵比べにおいては尚泰久が2人を上回ります。護佐丸の娘を正室に迎えていた泰久は、新興勢力である阿麻和利に王女、百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせて縁戚関係とし、護佐丸に謀反の疑いを掛け、阿麻和利を官軍として攻撃し滅ぼします。

 

そして今度は阿麻和利が謀反したとして返す刀で阿麻和利を滅ぼし、再び沖縄を1つに統一しました。ところが、泰久も寿命には恵まれず在位7年で死去。

 

その後は子の尚徳が7代目の王として即位しますが、喜界島遠征など外征で国力は疲弊。尚泰久の重臣で貿易長官だった金丸(かなまる)が次第に人望を集め、尚徳の死後に首里城でクーデターを起こし、幼い王と生母を殺害。反対派も残らず粛清して1470年に即位。尚円王と名乗ります。

 

これを第二尚氏王朝と言い1879年の琉球処分まで409年間継続しました。一般にイメージされる琉球王朝とは金丸が創始した王朝の事を指すのです。

 

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沖縄と日本の関係は室町時代から

京都御所

 

沖縄には飛鳥や奈良時代頃から、遣唐船の遭難や沖縄の首長が貢物を大和朝廷に出したという記録がポツポツと出てきますが、いよいよ交流が密になるのは室町時代です。

 

当時、明王朝は海禁政策(かいきんせいさく)を取って国内の中国人を海洋貿易に従事させない代わりに、琉球国に対して、貿易船と航海スタッフを与えて、日本から東南アジアを航海させ貿易品を高値で買い上げるという貿易システムを構築していました。

 

船を手に入れた沖縄は、それまで待つばかりだった大和に向い船を向けますが、断片的な情報しか伝わっていないので、室町時代なのに鎌倉に都があると思い込み相模湾に琉球の船が到着した記録もあります。

 

その後、沖縄は日本の情報を収集し堺や兵庫、九州で活発な交易を繰り広げますが、応仁の乱を契機に京都周辺が騒乱に巻き込まれたので、拠点を九州に移して交易を続けました。後に征服される事になる薩摩の島津氏の港である坊津にも琉球の船が入っています。

 

細川勝元

 

この頃の逸話として、1451年の7月、琉球船が兵庫につくと管領細川政元(かんれい・ほそかわかつもと)は家来を遣わして商品を選び取りましたが、己の権勢をかさにきて代金を支払いませんでした。代金未納分は7000万円にもなり、琉球商人は足利義政(あしかがよしまさ)に訴えを起こし義政は3人の奉行を派遣して勝元を糾明したものの商品はまだ返ってきていないという記録が康富記に出てきます。

 

勝元だけがヒドイのではなく、室町幕府の沖縄への対応はおおむね横柄で高圧的であり、沖縄人としては朝鮮や明王朝に比較するとあまり対応したくない客でした。

 

日本が応仁の乱から豊臣秀吉の天下統一に至るまでの1世紀、沖縄は第二尚氏3代国王、尚真王(しょうしんおう)により中央集権体制が確立され領土の拡張期を迎えます。以後、3代の国王の時代、琉球船はマラッカ海峡にまで到り大交易時代と呼ばれる繁栄の時代を謳歌する事になりました。

 

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沖縄と薩摩

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

尚巴志が沖縄本島を統一すると、そのエネルギーは周辺の島々の武力制圧に向かいます。こうして琉球王国軍は南を与那国島、北はトカラ列島に属する臥駝島にまで到達しました。

 

西暦1450年に暴風で遭難し臥駝島に漂着した朝鮮漂流民の記録によると、島は薩摩と琉球で支配が二分されていると証言しています。当時の薩摩は分裂して内紛が続き、一丸になって琉球に備える事が出来なかったのでしょう。

 

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

この時代の沖縄人は大和武士と同じように反りのある大小の刀を常に腰に差し、死を軽んじ、進むを知って退く事を知らない蛮勇を誇る人々であり、周辺国からも強力な戦士として恐れられていました。戦国の気風冷めやらぬ時代の人々は狂暴な人が多いようで、日本でも沖縄でもそう変化しないのかも知れません。

 

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朝鮮征伐と島津侵攻

日本史 小判(お金)

 

日本が戦国の騒乱に覆われている間、東南アジア交易で繁栄を謳歌(おうか)していた沖縄ですが、16世紀も後半になると繁栄に陰りが見えてきました。

 

ガレオン船(世界史)

 

琉球の後発で大航海時代を迎えたスペインやポルトガルが喜望峰を周回してインド、そして東南アジアに到達し武力で貿易拠点を確保したのです。さらに、琉球に独占貿易を許可した明王朝も16世紀に入ると国力が衰退し海禁政策は事実上守られなくなり、中国商人が進出して海外交易に乗り出しました。

 

また、当時南アメリカ大陸で発見された大量の銀が中国に流れ込み、それまでの決算通貨である銅銭を駆逐。銀を豊富に産出する戦国日本も海外貿易に乗り出していきます。ライバルが次々に台頭する中、国内で銀を産出出来ず、また国の規模も小さい琉球王朝は競争に敗れ、交易範囲も1570年代には東アジア海域へ大幅に縮小しました。

 

一方で海外交易で肥大化した行政機構を整理する事は容易ではなく沖縄は財政赤字に悩まされ続ける事になります。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

琉球王朝の苦悩に追い打ちをかけたのが豊臣秀吉の朝鮮出兵でした。秀吉は1591年、琉球の使者が聚楽第(じゅらくだい)に挨拶に来た事を理由に琉球王朝を従属国の1つと見做し、朝鮮出兵に対し矢銭(やぜに)(軍資金)を出すよう薩摩藩を通して命じました。

 

島津義久

 

島津義久は

「琉球は戦から離れて長いので兵員は要らない7000人分の兵糧10か月分を出してくれ」と要求しますが、同じく明王朝の冊封を受けている朝鮮の侵略に手を貸すなど出来る話ではなく、悩んだ末に要求された兵糧の半分だけを出し残りの要求は黙殺します。

 

秀吉の朝鮮出兵は文禄の役、慶長の役の二度に及び、いずれも失敗し琉球としては冊封体制にヒビが入らずに済み安堵しますが、逆に薩摩藩は朝鮮の役に膨大な軍事費を費やし、何の見返りも得られませんでした。さらに薩摩は関ケ原の戦いでも西軍についたせいで得るものがなく深刻な財政破綻の危機に陥りました。

 

こうして、薩摩藩は財政破綻の危機を回避する為に、明王朝との交易利権を握る沖縄の征服を意図する事になるのです。

 

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琉球島津氏の属国となる

名古屋城

 

琉球侵攻を決意した島津氏ですが、すでに江戸幕府が開府し大名の私闘が禁止されているので、独断で琉球を攻める事は不可能で大義名分が必要でした。そこで島津氏は琉球の船が仙台に漂着したのを家康が丁重に琉球に送り返したのに、琉球は返礼の使者も出さず怪しからんと言い出します。

 

ただ、琉球にも言い分があり使者を江戸に派遣したら家康は琉球を家来として扱い、建前上、明王朝に臣従している沖縄としては冊封関係にヒビが入る事を恐れていたのです。島津氏は、この琉球の外交上の弱みをついて攻撃し、家康に対して無礼な琉球を討伐するという許可を得る事に成功しました。

 

野望を持ち始めた徳川家康

 

また家康としても、秀吉の朝鮮出兵以来、明王朝が日本との交易を厳禁し唐物と呼ばれた中国商品が国内に入らない悩みもありました。島津氏が琉球をコントロールすれば琉球を介して唐物が入手しやすくなるという思惑もあり、島津氏へ琉球征伐を許可したのです。

 

1609年3月4日、樺山久高(かばやまひさたか)を総大将、平田増宗(ひらたますむね)を副将とする島津軍3000が山川港を出陣。琉球の支配下にあった大島、徳之島、沖永良部(おきのえらぶ)では現地勢力と戦いが起きますが、鉄砲の集中運用の前に敗北。

 

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

3月25日に島津軍は本島北部古宇利島(こうりじま)に上陸。ここから樺山隊は那覇に、平田隊は今帰仁(なきじん)城に侵攻、城兵は退却したので城を焼き払います。琉球王国は慌てて今帰仁まで使者を立て和議を請いますが樺山は「那覇で談合しよう」と言い捨て、読谷(よみたん)渡具知港(とぐちこう)から上陸。浦添城、竜福寺を焼き払い、首里へと進撃します。

 

首里へ入る大平橋では、首里士族百名あまりが最後の抵抗を試みますが、鉄砲の一斉掃射であっと言う間に蹴散らされ島津軍は首里城を包囲。4月4日、七代国王尚寧が降伏して首里城を退去しました。

 

かくして開戦から1ヶ月で琉球は薩摩藩に降伏。徳川幕府の天下統一は海を遠く隔てた沖縄にまで直接的な影響を及ぼしたのです。

 

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薩摩の旗の下で

 

首里城を占拠した薩摩軍は城の財宝を全て没収し、尚寧王以下、百名の重臣を薩摩に連行。二年の抑留(よくりゅう)の後、「未来永劫(みらいえいごう)薩摩には叛かない」という誓約書を書いて帰還を許されます。

 

ただ1人、反大和を叫び徹底抗戦を主張した謝名親方だけがケジメをつけて署名を拒否、斬首刑に処されました。それまでの独立を奪われた沖縄では敗戦ショックが半世紀に渡って継続し、政治は停滞し、モラルは地に落ちる状態が続きますが、王族に連なる戦後生まれの羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が薩摩の支配を受け入れた上で沖縄が生き残る道を模索し、羽地仕置(しお)きと呼ばれる大改革を断行。

 

大交易時代以来、肥大を続けていた官僚機構を整備して冗官を廃止し、祭政一致が続いていた王国の政治も国王権限を強化し聞得大君に優越するなど世俗権力を強化。歳入の20%という薩摩の年貢を背負いつつ財政を黒字化し火事で焼失していた首里城正殿を再建するなど手腕を発揮します。

 

その後も沖縄では、救荒作物の芋や換金作物サトウキビの栽培と黒糖づくりの技術を沖縄全土に普及させた儀間真常(ぎましんじょう)や、哲人政治家と呼ばれた宰相(さいしょう)蔡温(さいおん)の登場もあり過酷な薩摩支配の中でも伝統文化を発展、継承させていく事になりました。

 

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明治維新、そして琉球処分

幕末77-14_錦の御旗

 

1868年江戸幕府が倒れ明治維新が成就しても、琉球は薩摩藩の支配下にありました。当時の琉球国の高官にも徳川が倒れて薩摩や長州が政権を握るらしいというイメージはあったようですが、沖縄に関しては勝者の薩摩藩が引き続き支配するだろう程度の考えだったのでしょう。

 

明治天皇

 

明治5年、明治政府は琉球に慶賀使(けいがし)の派遣を命じ、琉球国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王とするとして明治政府の支配に直接組み込もうとします。

 

これに対して琉球は、

「琉球は清朝皇帝(しんちょうこうてい)冊封(さっぷう)を受けていて二君に仕える事は出来ない」と辞退を願い出ますが、明治政府は冊封も進貢貿易も今後は許さないと通達しました。

 

宮廷(女帝)

 

明治政府の狙いは、日中両属の形になっている沖縄を、まずは琉球藩として江戸時代の藩の扱いとし、次には廃藩置県で県として県令を送り込み、清朝との関係を絶ち国境問題を解消しようというものです。

 

その為、琉球王朝に外交権を認める形になる進貢貿易(しんこうぼうえき)も国王の代替わりの冊封も認めないわけですが、それは外交主体である琉球国の存続を認めないという事でもありました。

 

王国が消滅すれば職を失う琉球士族は、必死のサボタージュ戦法で廃藩置県の先延ばしと日中両属を認めるように明治政府に嘆願(たんがん)しますが、政府は沖縄の管轄を外務省から内務省に切り替え、内務卿大久保利通が主導して強引な政策を打っていきます。

 

大久保利通 幕末

 

沖縄には琉球処分官として1875年から松田道之(まつだみちゆき)が赴任、何度も琉球王国の高官と折衝(せっしょう)を続けますが、のらりくらりとした高官の対応に、これではらちがあかぬとして軍事力による威圧で首里城を明け渡させる事を決意。

 

1879年3月松田は内務省官僚、武装警官、熊本鎮台兵総勢560名を引き連れ首里城に乗り込み「琉球藩を廃し沖縄県を置く、居城の退去、尚泰は東京在住」を厳命。3月27日、尚泰は勧告に応じて首里城を退去しました。

 

同年4月4日、琉球藩は消滅し沖縄県が発足。現在に繋がっています。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

以上、沖縄県の戦国時代とその周辺の時代について解説してみました。沖縄の戦国時代は、北海道のアイヌのケースに似ていて自前の文化を築き、最初は交易を通して交流していたものが時代の変化により、薩摩藩の支配を受け間接的に日本文化の流入が進み、明治維新後に日本に完全に組み込まれたという所でしょうか。

 

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